――相馬家長女・桜花さんはこの時期、旅に出ます。
「それでは、さっちゃん、ゆうくん、きくちゃん、しゅうちゃん。おねいちゃんは旅立ちます。おうちのこと、くれぐれもよろしくお願いします」
桜花は玄関先で深々と頭を下げた。
眼鏡の奥に見える目の下には、通称森の熊さんがでんと居座っている。
その桜花を見送る妹たちと弟は、毎年のことながら生ぬるい空気をかもしだしていた。
次女・皐月がいった。
「まぁ、死なない程度に。毎年のことだけど」
冷静な台詞である。人混みにもまれて毎年毎年死にそうになって帰宅する桜花を、これでも気づかってくれているのだろう、と好意的に受け取る。
三女・菊花がそっと栄養ドリンクを差し出した。
「徹夜明けの状態よりはましな顔色してるけど、とりあえずこれ、お餞別」
「あ〜り〜が〜と〜〜〜」
やはり気配りの出来る妹は違う、と桜花が感動しているところへ四女・秋華がずばっと一言。
「毎年のことだけど、季節はずれの『おぼろ月夜』歌いながら締め切り前にお花畑見てるくらいなら、どうして夏コミ行くのやめられないの?」
ぐさり。
すかさず皐月と菊花の声が、秋華に飛ぶ。
「バっっカ……! 桜花姉さんに同人やめろなんて、あんたに音楽やめろといってるようなもんじゃないの!」
「秋華ちゃん、魂かけた好きなことはどれだけお花畑見る羽目に陥ってもやめられないものよ?」
皐月と菊花のフォローがまた桜花のガラスのハートに容赦なく突き刺さった。
理解のある家族と喜ぶべきか、泣くべきか。
弟・優駿が桜花の顔色に気づいて顔色を失ったが、相馬家唯一の男として日々虐げられている彼はそれ以上何も言葉を発することもできず固まっていた。賢明な判断かもしれない。少なくともこの場では。
目の前に菜の花畑が浮かんでは消えた。今年は競争率○倍の難関を突破してせっかくブースがとれたのに。締め切りという名の修羅場を突き進むたび、なんど「お花畑」=幻覚をみるほど追いつめられた精神状態から帰還したことか。
「菜のは〜なばたけぇに〜、い〜り〜ひ薄れ〜〜〜♪」
「ああッ、桜花姉さんが壊れたッ」×4
桜花はキャリーバックをがらごろ引きながら我が家を後にした。涙で目の前がかすみ、清少納言も賛美した夏の月は、さながらかすめるおぼろ月夜にか見えなかったとかなんとか……。
***
菊花がぽつりという。
「夏の祭典って、明日からよね?」
皐月が頷いた。
「印刷所からあがってきた本は全部あっちの友人宅に送付済みだそうよ。身ひとつで移動できるだけ姉さんはマシなほうじゃない?」
秋華が首を振った。
「やだやだ。なにが悲しくて自宅を前日出発、三日間友達ん家に泊まり込みなんだか」
それに答えて皐月が「そりゃー、あますことなくイベントを楽しむためでしょー」と、けらけらと笑う。菊花も穏やかな微笑みを浮かべた。
そのあいだ優駿は姉のシフト表を見ていた。そしてある事実に気づく。
「……桜花姉ちゃん、来週も休みとってる」
「ん?」
「もしかして、さぁ……行くんじゃないの? 東京だけじゃなく、インテックス大阪のほうにも……出店するかどうかまで聞いてないけど」
「………………」
相馬家きょうだい全員の脳裏に、小学校唱歌「おぼろ月夜」が木霊した。黄色い花畑の向こうで「あはは」「うふふ」などといって踊っている長女の幻影が見えるのは気のせいか(反語)
足下でにゃおんと飼い猫が鳴いた。主人達の間に流れる空気などおかまいなしに、今日も彼女はひとり(一匹?)平和である。
今年も夏の勇者たちに幸あれ。