昼休みを現すチャイムが鳴った。普通なら楽しいランチタイム。授業から解放されて高校生たちは一斉に弁当を広げ、あるものは学食へとひた走る。
が、一人の男子高校生は悲壮な、いや、切羽詰まった顔をして友人ふたりの肩を捕まえた。
「ごめん。お前ら、金、貸してくれ……!」
友人達は顔を見合わせる。ふたりはほぼ同時に自分らの肩に乗った彼の手を笑顔で振り払った。
「冗談はほどほどにな、ダービー」
「俺らが金持ってないの、知ってるだろ。ダービー」
彼の名は相馬優駿。あだ名はダービー。日本ダービーの別名を東京優駿という。また彼の名の由来がどんぴしゃでそれなものだから、友人達は面白がり、本人はこのあだ名を嫌っていた。
「そのあだ名で呼ぶな! それはさておき、お前ら頼むよ〜。今日、財布忘れてきたんだよ〜、昼飯代だけ貸してくれよ〜」
台詞と同時に腹の虫がきゅるきゅると自己主張した。
「どうしたよ、ダービー。いつもは皐月さんの作った手作り弁当があるだろうがよ」
「待て待て、田中。皐月さんは二番目の姉さん。弁当を作ってくれるのは一番目の桜花さんだろうが」
「ああ、そうだったっけ。鈴木、よく覚えてるな。たしか妹も二人いるんだよな」
いや、田中も鈴木もよく覚えていると思う。
相馬家は女四人、男一人の五人兄弟である。優駿はただ一人の男で、当然ながら家の中の優先順位は一番下だった。飼い猫より下なのである。
そんな家庭内の事情はさておき、優駿は今、本当に困っていた。
「いや、実は、昨日桜花姉ちゃんとケンカしてさ」
そういうと田中と鈴木は一斉に引いた。
彼らの目には『この命知らず』と書いてある。まことそのとおりなのであるが。
「ケンカっていっても晩飯にちょっと文句いっただけだぜ? そりゃ反省してるけどさ!」
食べ物を作る人に逆らってはいけない。動物界の掟だ。そして、長女・桜花の静かな怒りは翌日の弁当にあらわれた。
優駿は二人の友人の前で弁当箱をあけた。
配色は美しいが食欲をそそる香りはしない。むしろ油くさい。
そこにあったのは、大小のクレヨン。芸が細かいことに、ちゃんと配色を考えて詰めてあった。ささやかにメッセージが添えられている。
『おねーちゃんの作るお弁当に文句あるなら、自分で食べたいお弁当、好きに描いちゃってね☆』。
田中と鈴木は顔を見合わせた。
はたして優駿の財布は本当に『忘れた』のだろうか。これは桜花による昼飯抜きの罰則とみるのが普通なのではないだろうか。
田中と鈴木はそろって優駿の背中を叩いた。
「がんばれよ」
「負けるなよ」
「僕のごはんー!! いっそこのクレヨン、食べてやろうか!?」
クレヨンは基本的に口に入れても無害なように作られてある。
優駿の腹は「なんでもいいから食べさせろ」と、またあわれっぽく鳴くのであった。
***
本日、桜花は仕事が休みである。
高校生以下の弟妹たちの弁当を作るのは彼女の日課であり、今日はその残りを食べながら思い出し笑いを浮かべていた。今頃は弟が空腹を抱えて絶叫しているころであろう。
家には誰もいないと思っていたが、だるそうな足取りで階段を下りてくる者がいることを聞きとめた。
「さっちゃん? 今日、講義はお昼からだったの?」
美大生の次女・皐月にはいつも弁当は作らない。皐月はいかにも起き抜けの顔をしながら台所に現れた。
「おはよう」
太陽はすでに真上に来ている。
台所を通過して洗面台に消える。水の音にまぎれて皐月の声がした。
「ところで姉さん。私の部屋から画材を持ち出さなかった?」
持ち出したとも。朝も早くから、忙しい合間を縫ってクレヨンを弁当に詰めるという手間のかかるいたずらをしたのである。そういう手間はおしまないのが桜花であった。
「うん、クレヨンをね。ゆうくんのお弁当箱に入れたから。もしかして必要だった?」
だとしたら弟の帰宅を待たねばならない。いくら口に入れても無害だとはいえ、さすがに本当に食べる馬鹿はいないだろう。
「クレヨン?」
眉間にしわをよせているような声である。皐月は肩にタオルをかけて現れた。
「別に今すぐ使うわけじゃないけれど……あれ、クレヨンじゃなくて、オイルパステル」
皐月は冷蔵庫からミネラルウォーターを出す。桜花はいわれた意味が分からない。
「私たちが幼稚園で買わされた黄色い箱のあれがクレパス。サクラクレパスの登録商標。柔らかくてべたっとした塗りごごち。クレヨンはもっと塗りごこちが固くて透明感のある着色。オイルパステルはもっと、ねっとりした感じ。ちなみに、そこそこ有害」
「………………」
「馬鹿な弟とはいえさすがに食べないとは思うけど、弁当箱に詰めるのもどーかと思うわけよね」
桜花はふっと遠い目をしつつ窓の外に目をやった。
「……今日はいいお天気ね、さっちゃん……!」
「現実逃避しない、そこ」
とりあえず戻ってきた弁当箱は妹たちとは別にして、しっかり洗おうと決めた。