相馬さんちのお嬢様's+12021-01-17T01:41:04+09:00JUGEM桜花さんのストレス発散http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=382012-09-02T01:31:00+09:002012-12-12T18:26:55Z2012-09-01T16:31:00Z 桜花の仕事は、洋服を縫うことである。 好きこそ物の上手なれ。特に直線縫いだけでできるスカートを縫うのが好きで、自分の分や妹たちの分をよく縫っていた。 そして今、桜花は部屋に閉じこもってスカートを作っている。 規則的に続くミシンの音がそれを物語っている...十和田 茅037:スカート 好きこそ物の上手なれ。特に直線縫いだけでできるスカートを縫うのが好きで、自分の分や妹たちの分をよく縫っていた。
そして今、桜花は部屋に閉じこもってスカートを作っている。
規則的に続くミシンの音がそれを物語っている。
皐月はその音を聞きながらため息をついた。
おそらく、えんえんミシンをかけるだけの作業は一種のストレス発散手段なのだ。
*
祖母の家に家出中の末の妹・秋華から電話があった。
大声で放たれた一言は、家庭崩壊しそうな破壊力のあるネタだった。
『桜花ちゃん!! うちの誰かがホントに、うちの子じゃないってホント!!?』
ドップラー効果が通り過ぎたあと、電話を取った桜花が秋華に負けないくらいの大声で怒鳴った。
「そんなわけ、あるかーーー!! この馬鹿!! もう帰ってこなくてよろしい!!」
ガチャン!
……売り言葉に買い言葉じゃないの、と皐月が思ったときにはもう受話器がおろされていた。
あとで、秋華にくっついていった菊花から、弟のところに電話があったと聞いた。
どうも祖母の家に来ていた叔母が余計なことを妹たちの耳に入れたらしい。
きょうだいのうち誰かが養子だとか、今までそういう話はこの家では出たことがない。秋華にとっては寝耳に水だったそうだ。ただ、それを聞いた優駿と菊花の反応を見る限り、どうもこの二人は噂程度は聞いているようである。
噂などという不確かなものに振り回されるほど、厄介なものはない。
*
桜花の好きな甘いミルクティーとチョコチップクッキーを携えて、皐月は彼女の部屋のドアをノックした。桜花は甘党なのだ。
「お茶いれたんだけど、どう?」
ミシンの音がやんだ。
そっとドアが開いたので、中にいれてもらう。
桜花の目元が険しい。
「ストレスにはとにかく甘い物がいいでしょ?」
「……ありがと」
「ただし私はそこまで甘い紅茶にはつきあえないので、コーヒーでごめんね」
紅茶とコーヒーとお菓子がのったお盆をそのへんに置く。
ふとミシン台を見るとロングスカートがかかっていた。余り布で作った物だろうか。この縦を一気にミシンをかけるのはさぞ勢いがいるものと推察する。
桜花は無言でお茶に向かった。
さてどう話を切り出したものか。困りながら皐月もコーヒーを口にした。
ぽつりと、桜花がつぶやいた。
「甘さが足りない……」
「砂糖、まだ入れるの!? それでもスティックシュガーまるまる一本入ってるのに!」
「お客様用の細いやつ? あれだと足りない。あれって一本3グラムしかないのよ。あれ使うんだったら二本欲しい。お客様用を使うのもったいないから、いつもは料理用の砂糖壷から小さじ山盛り一杯いれちゃう」
「どれだけ甘くすれば気が済むのよ……」
皐月が砂糖を入れるときはスティックシュガー半分がデフォルトである。甘い物が大好きで、それなのに、思い出したように「ダイエットしなきゃ!」といっているのだから本末転倒ではないかと思う。しかしそれを今、このタイミングでいいだす気はないのだが。
母は本日、出張中。ある意味、よかった。
「ねーさん」
「……何よ」
じろり、と睨まれた。やっぱり怒っている。
「怒り心頭でスカート縫ってるより、秋華を迎えにいってやったらいいんじゃないかなーと、姉の一人としては思うわけですが」
「行かないわよ。しゅうちゃんが悪い」
苦笑するしかない。
だから、皐月も言いたくない台詞を言わなくてはならない。
「でも事実でしょ?」
しょうがないじゃない、というニュアンスを自分では醸しだしたつもりなのだが、姉の怒りに油を注いだだけだった。
「違いますー! みんな、うちの子なの!!」
「だからそれは分かってるけどもさ……」
「うちの子だってば!」
聞く耳は持ってもらえないようである。
こういうところ、実は桜花と母はよく似ている。
だから離婚が成立したあとの相馬家の方針として、一人だけ違うのだということは伏せられた。彼女たちの言い分は「みんなうちの子、みんな平等。そのつもりで全員を扱うので、わざわざ一人だけ実の子ではないということを教える必要はない。それは不平等を招く」ということらしい。
そして、皐月と、離婚した父がそれとは違う考え方だった。
事実なんだから始めからその情報を明らかにして、その上で家族である「努力」を重ねればよいのではないだろうか、というのが皐月の言い分なのだが。
今更それをいっても仕方ない。
下のきょうだいたちは「それが誰か」を知らずに育ったのだから。
この家で、知っているのは母と桜花と皐月だけである。
桜花との話は結局平行線で交わることのないままだった。皐月の分のクッキーまできれいに平らげて桜花はまた自室に閉じこもった。ミシンの音が復活する。一体何着分のスカートを縫えば、内側から天の岩戸は開くのやら。
*
からっぽになった食器を持って、皐月は台所に入った。
するとそこで、弟・優駿が一心不乱にタマネギを刻んでいた。
「あんた何やってんの」
「桜花姉ちゃんが出てこないんだろ? 夕食くらい作ろうと思って。今日はハンバーグだよ」
「ありが……」
礼の言葉を続けようとして、ぎょっとした。優駿は目にいっぱい涙をためながらタマネギを刻んでいたのだ。
皐月は眉間に人差し指を当てた。
これは、多分、あれだ。タマネギを刻んでいたから涙が出てきたのではなく、泣きたくなったからタマネギを刻んでいるのだ。
桜花のスカートと根本は同じかもしれない。気を落ち着けるために何か手を動かしていないと気が済まない。
秋華の爆弾発言で気を揉んでいる人間は、ここにもいたことをすっかり忘れていた。
「タマネギ、目にしみるでしょ」
わざとそう振った。
「うん。今日のはやたら強烈でさ」
いきなり誰か一人がきょうだいではないと聞かされたら、思春期の子供達としてはやはり大事件なのだ。
刻まれたタマネギの山は、油をひいたフライパンの中へ投入される。
もわっと煙が立ち上った。
「あー、目が痛い。煙まで目が痛いや」
優駿は菜箸でそれをかき混ぜる。
「ゆう。もし、もしも、よ。うちの五人きょうだいのうち誰かが、父さんと母さんの子じゃないとしたら、あんた誰だと思う?」
菜箸をかき混ぜる手が一度止まる。が、すぐに元通りの動きを繰り返した。
「……自分かな。菊も同じ事いってたけど」
「同じ事って、優駿が?」
「いや、そうじゃなく……菊も、自分じゃないかな、って。つまり菊花は菊花がそうじゃないか、って思ってるらしい」
皐月はため息をついた。
疑心暗鬼。ヘタに隠し事をするからこうなる。
「姉ちゃんは知ってるの?」
「あんた、なんで自分だと思った?」
「え。だって……うち、男の子は自分だけだし……」
皐月は、人差し指を振ってそれを否定してみせた。
「ね、姉ちゃん?」
「優駿。明日、秋華と菊花を迎えにおばあちゃんの家に行くから、支度しなさい。今日のハンバーグ焦がしたら罰ゲーム」
「誠心誠意、作らせていただきます!!」
さあ、今晩はおいしいハンバーグ。明日には新しいスカートが縫い上がっていることだろう。
]]>きょうだい喧嘩http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=372010-10-30T22:15:00+09:002010-11-03T12:23:55Z2010-10-30T13:15:00Z「桜花ちゃんの馬鹿ー!」「馬鹿っていうほうが馬鹿ー!」 今日も相馬家はかしましい。 声の主は、末妹・秋華と長女・桜花である。 本人たちにいえばさらにうるさくなるのがわかっているので誰もいわないが、相馬家五人きょうだいのうち一番年上の桜花と、一番年下の秋...十和田 茅036:きょうだい「馬鹿っていうほうが馬鹿ー!」
今日も相馬家はかしましい。
声の主は、末妹・秋華と長女・桜花である。
本人たちにいえばさらにうるさくなるのがわかっているので誰もいわないが、相馬家五人きょうだいのうち一番年上の桜花と、一番年下の秋華が、一番よく似ているのだ。
一番よく似ているということは、一番衝突も多いということで。
自然、喧嘩が始まるのはこの二人が一番多い。
「毎日毎日、似たようなことで喧嘩できるもんだわね」
と次女・皐月がいい。
「喧嘩もできないきょうだいよりいいわよ」
と三女・菊花がいった。
その間に挟まれる場所にいる(生まれる順番でもこの二人に挟まれている)長男・優駿は無言だった。相馬家ヒエラルキーの末席としては、喧嘩するほど本当に仲がいいのかと疑問符付きで声を上げたいところだが、姉と妹に気兼ねして口には出せない。
しかし、今日はまた調子が違った。
友達がどうだとか、みんなやってるとか、よそはともかくうちはうちです、とか、そんなよくある口論が全く落ち着く気配をみせない。どんどんヒートアップしていく。
聞いている三人は、これはそろそろ止めなければいけないかと腰を浮かせる。
が、一歩遅かった。
秋華が口火を切った。
「なによ、私なんか、この家の子じゃなかったんだー!!」
三人が全員、立ち上がった。
「ちょっとあんた、いっていいことと悪いことがあるでしょーよ!」
「秋華、桜花姉ちゃんに謝れ、な! な!?」
「秋華ちゃん、冗談がすぎるわよ」
相馬家の台所を一手に切り盛りする、ある意味母より強い、桜花は。
「出ていけーーー!!」
……売り言葉に買い言葉であった。
*
本当に秋華は出て行ってしまったのである。
ただ、売り言葉に買い言葉の発作的な行動で、後先考えた物ではない。その秋華の後を追ったのは菊花だった。相馬家では、下のきょうだいはすぐ上のきょうだいが面倒を見ることが家訓のようになっている。秋華の面倒は菊花がおさめねば、本人が気が済まないといったところだろう。
菊花の報告によると「帰りたくない」と駄々をこねて動かない秋華をうまく丸め込んで、母方の祖母の家に向かっているらしい。道中、あるいは祖母の家で菊花が説得してくれることを他のきょうだいは期待している。
相馬家ではちょっと珍しい光景がひろがっていた。
ふくれっつらをしている桜花を正座させて、こんこんと皐月が説教をしている。いつもなら説教をされているのが皐月のほうなのだが。
「姉さんも、いっていい言葉といけない言葉、いくら頭に来ていたからってわからないはずないでしょう? 聞いてるの、姉さん!」
「……だって、しゅうちゃんが……」
「ね・え・さ・ん」
「……はい」
優駿は「おお、珍しいこともあるもんだ」と部屋の隅っこで小さくなりながら二人の問答を見ているしかない。
女所帯でただ一人の男は、こういうとき全くの無能である。まるで彼女たちだけで役割分担がきっちりできあがっているようだ。
連絡待ちというのももどかしいものだ、と思っていると、家の電話が鳴った。
全員が「秋華からだ」と直感した。そういうものだ。
一番に飛び出したのは桜花だった。
なんだかんだいいながら末の妹が心配だったと見える。
「はい、もしもし!?」
……と。
受話器の向こうから、秋華の大声が響き渡った。
『桜花ちゃん!! うちの誰かがホントに、うちの子じゃないってホント!!?』
大音量に、桜花が耳を覆った。
皐月が天を仰ぐ。
優駿は目が点になった。
嵐が、やってきた(笑)
]]>菊花さんの憧れの女(ひと)http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=362008-06-29T15:09:00+09:002008-12-08T15:21:57Z2008-06-29T06:09:00Z 発端は一葉の写真だった。
「ねーねー。うちの親戚に、双子の男の子なんていたっけ?」
妹・秋華の声に、菊花が写真をのぞきこむ。
「ほら。顔立ちが兄貴に似てなくない?」
小学生くらいの少年の、よく似た顔がふたつ並んでいた。同じような短い髪におそろい...十和田 茅035:髪の長い女
「ねーねー。うちの親戚に、双子の男の子なんていたっけ?」
妹・秋華の声に、菊花が写真をのぞきこむ。
「ほら。顔立ちが兄貴に似てなくない?」
小学生くらいの少年の、よく似た顔がふたつ並んでいた。同じような短い髪におそろいの運動着。腰から下は映っていない。
ああ、と菊花は納得した。
「これ私よ。私と兄さん」
「ええ!?」
秋華が写真と今の菊花を見比べる。
「だって全然似てないじゃん!!」
と、力を込めて断言してくれた。菊花は苦笑する。どうやら当時の秋華は幼すぎて覚えていないらしい。
今の菊花と兄は、あまり似ているとはいわれない。
「この頃は、私もまだ短い髪だったのよ。着るものも兄さんのお下がりが多かったし。おまけに私、兄さんの後をくっついて男の子とばかり遊んでいたじゃない? 男の子に間違われること、しょっちゅうでね」
ふふふ、と菊花は微笑んだ。
髪を伸ばし、眼鏡をかけて、ボーイッシュな服を選ばなくなってから兄と似ているとはいわれなくなった。今の菊花は背の半ばまで伸ばした髪をいつもおさげにしている。これでセーラーカラーの制服を着れば、古き良き時代の女学生といった風情だ。
秋華はまだ信じられないといった様子で頭を横に振った。
「だって! うちの四姉妹の中で一番、女の子らしいのが菊花ちゃんじゃない! そりゃあ、一番年寄りじみてるのも菊花ちゃんだけどさ。皐月ちゃんは兄貴より男前だし、桜花ちゃんは桜花ちゃんで、間違った方向に行ってるっていうか女子として腐ってるっていうか……」
「秋華ちゃんは、そのお口の悪さをなんとかすれば、女の子らしくなるのにねぇ?」
秋華は黙り込んだ。
どうも秋華は、実物以上に菊花を高く評価している傾向がある。菊花は目を細めた。そういえば自分にもこんな頃があったのだ。
*
菊花にとって、ひとつ上の兄が一番、身近な存在ではあったのだけれど。
兄のすぐ上の姉・皐月は、手の届きそうなあたりにいる憧れの存在だった。
ちょうど一番上の姉・桜花が反抗期に入り家の中がギスギスしていた頃でもある。あとになって皐月が「姉さんがさっさと反抗期に入っちゃったから、私は大学を選ぶ段階までいい子でいなきゃいけなかったのよ」と笑った。
いつも母と怒鳴りあいをしている桜花よりも、静かにしていろと唇に指を当てる皐月のほうがずっと大人に見えた。時々いじわるだけれど兄よりも強くて、一番上の姉より大人びていて、母より近くにいた彼女に憧れていた。
憧れの存在の真似をしたくなるのはよくあることで。
――わたしも、髪を長くのばしたら、さつき姉さんみたいになれる?
すると姉はいった。
やってみな、と。
そうして男の子みたいだった少女は、三つ編みの似合う娘になった。
*
「皐月姉さんはきれいな直毛だけど、ほら、うちの家系は癖毛が多いでしょう、私の髪はおろしても綺麗じゃなくて。だからいつも三つ編みにして垂らしているの。動きやすくていいのよ」
「あー、わかる。私も毎朝スタイリングには苦労するもん。桜花ちゃんなんか天然パーマだもんね」
噂をすればなんとやら、桜花が「呼んだ?」とばかりに顔を出した。
かくかくしかじか、秋華が概要を説明すると。
「あらー、きくちゃんが髪を伸ばし始めたのって、市民プールに行ったとき間違えられて男子更衣室に放り込まれたときだったからだと思ってたわー♪」
「桜花ねーさん!! 本人がとうに忘れた恥を秋華ちゃんに教えないで!!」
ちゃんちゃん。]]>手を放さないで傍にいてhttp://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=352008-06-16T01:00:00+09:002008-06-15T16:00:22Z2008-06-15T16:00:00Z おいしそうなオレンジ色に熟れた太陽が、西へと落ちていく。 優駿は自転車通学だ。 行きは自転車で勢いよく坂道をくだっていくが、帰り道は自転車を押しながらぶらぶら帰る。 その途中で優駿は珍しく姉・皐月に出くわした。「優駿? あんた、今、帰り?」「あ...十和田 茅034:手を繋ぐ 優駿は自転車通学だ。
行きは自転車で勢いよく坂道をくだっていくが、帰り道は自転車を押しながらぶらぶら帰る。
その途中で優駿は珍しく姉・皐月に出くわした。
「優駿? あんた、今、帰り?」
「あれー? 姉ちゃん、この時間に帰るの珍しくない?」
美大生の姉は基本的に帰宅が遅い。
「6限が急に休講になってね。5限目は元々休講だったから、7限は自主休講にした」
「いいね、大学生は」
「あんたもあと一年すれば大学生でしょ。うまくすればね」
なんとなく、てくてくとそのまま連れだって歩いた。
一分後、皐月の持っていた荷物はひとつ残らず優駿が背負っていた。
「……ねーちゃん。『弟』は奴隷と同義語じゃないんだけど」
自転車を押しながら優駿は重い足取りで坂道をのぼる。
対し皐月はいつもより軽やかな足取りでその前を歩く。
「ほほう? 帰り道に買い物をしたいと。米と牛乳とミネラルウォーター、買っていいのかなあ?」
「……お慈悲をありがとうゴザイマス、オネーサマ」
「分かればよろしい」
下手すると本当にスーパーに寄って重いものばかりを持たされかねない。まして食べ盛りがそろった6人家族の相馬家、買う量が半端ではないのである。ぞっとしながら優駿は肩に食い込む鞄の重さに耐えた。
「なんで姉ちゃんの荷物、こんなに重いんだよ!?」
「画材は重いものよー」
皐月は高らかに笑った。
周囲はだんだんオレンジから青へと変化していく。
優駿の視界の真ん前には、前を歩く皐月の長い黒髪があった。皐月の髪は背を覆うまでに長いストレートだ。
いつぞやの黄昏の中も、こうやって、歩くたびにゆれる皐月の髪を目で追っていた……。
(あー……なんか、むかーしに見た光景だ、これ)
デジャヴ。いや、違う。「それ」はたしかに実際にあった出来事で。
優駿の記憶の中では、いつも皐月は優駿の前を歩いていた。優駿の手をひきながら。
肩口でゆれるおかっぱ頭。
にらみつけるように、まっすぐ前に向けられた目。
引き結ばれた口元。
そんな彼女に手を引かれ、幼い優駿は赤いランドセルごしに姉の顔を見上げていた。当時の彼女は、歩くスピードを幼い弟に合わせてはくれなかった。手を引っぱられながら、コンパスの短い足で一生懸命についていくのがやっとで。
「……なー、姉ちゃん」
「んー?」
「ランドセル背負った姉ちゃんが、ちっちゃい僕の手を引いてずんずん歩いてたこと思い出した」
ぽつりといった。
皐月の足が止まる。
「あんた、意外と小さい頃のこと覚えてるのね」
優駿は、そうみたいだね、と他人事のように答えた。皐月は振り返らない。
「あのころの姉ちゃんは、いつも険しい顔してたように思うけど……怒ってた?」
記憶の中の姉はランドセルを背負っていて、記憶の中の優駿は背負っていなかった。そうすると、この記憶は姉が大きくて小学4年生、一番幼くて小学1年生くらいまでの話だろう。優駿自身は3歳から6歳までの間ということになる。遊びたい盛りの小学生が、年の離れた弟の面倒を見るのはさぞ苦痛だったことだろう。
そこでやっと姉は振り返る。
「覚えてるのねぇ」
気のせいか、感慨深げな声だった。
「……姉ちゃん?」
が、それも一瞬のこと。姉は再度、高らかに笑った。
「そーよッ。あんたが、ちーちゃいときからお姉様が面倒みてたんですからねッ。ちったあ姉を敬えってのよ!」
「結局そこに行き着くのかーッ!」
生涯、姉には頭があがらない。
*
覚えていないといい、と皐月は思う。
保育園に預けられていた優駿を迎えに行くのは、小学校が終わったあとの皐月の仕事だった。ぐずる弟の手を引いて、皐月は帰りの坂道をのぼった。
母の育児ノイローゼが一番ひどかった時期だ。
母は子供嫌いだったというわけではない。むしろその逆で、両親とも子供は好きだった。そうでなければ5人もの子の親にはなれまい。
子供は年子の女の子が二人。そのあたりまでは母も普通だった。次に年の離れた男の子が産まれた。このあたりでも「子育ては大変」とばかりに目の回るような忙しさだったが、ギリギリまともな感覚でいた。
その翌年にまた子供ができたあたりから、母は少しずつ普通ではなくなっていった。
父はいい夫だったはずだった。少なくとも子供達とは積極的に遊んでくれたし、夜中まで仕事で帰ってこないだとか家事を手伝わないとかいうことはなかった。
それでも、人間、壊れるときは壊れるのだ。
子供が泣く、と、この世の終わりのように父にすがって泣いていた母。
夫婦喧嘩もひどくなった。いや、正確には母が一方的に父をなじっているのだ。八つ当たりといってもいい。そのほか、とても優駿や菊花には聞かせられないような母の台詞も皐月の記憶の片隅に残っている。
家の中は荒れ果てた。掃除機をかけることと洗濯機を回すことはいつのまにか長女・桜花の担当になっていった。桜花が少しずつ家事を手伝い始めるようになったのはこの頃だ。
赤ちゃんだった三女・菊花は祖父母のところへ預けられた。
よちよち歩きの長男・優駿は運良く保育園に当選し、朝、送っていくのは父の仕事で迎えに行くのは皐月の仕事になった。
空はいつも茜色に染まっていた。
そして、子供達の知らないところで、両親の離婚話が持ち上がった。
なぜ、当時の不安定だった母の手元に子供が全員残されたのか皐月は知らない。桜花も知らないといっていた。
ただ離婚の話し合いは性急なものではなく数年がかりだったのがよかったのか、母はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
その間に末っ子・秋華が生まれたが、そのときにはもう母の情緒不安定はやんでいた。
両親は正式に離婚。そのあと母は「母親業」を一切放棄してバリバリ働き始めた。結果的に離婚は正解だったかもしれない。
だが、こんな話を、弟や妹に話す気にはなれなかった。
知らなくてもいいことだ。
だから、覚えていないといいと思う。
*
知らないふりをしていればいいか、と優駿は思う。
優駿に当時の記憶はない。記憶はないが、5人の子供を抱えて母親の育児ノイローゼがひどかった「らしい」と、親戚から漏れ聞くことはあった。
当時小学生だった姉たちの記憶には残っていることだろう。どうやら先ほど思い出した夕暮れの記憶は、その当時のことのようだ。悪いことを聞いてしまった。
いいたくないのなら、こちらも知らないふりをしていればいい。
親戚がこそこそと話していた。
『自分の子供ばかりならまだしも、他人の子供まで引き取って育てたりするから……』
……聞かなかったふりをすればいい。
何も聞かない。何も知らない。だって家族は誰も何もいわないから、どうかずっとこのままで。
「ねーちゃん」
「何よ」
皐月がけげんな顔で優駿を見る。
優駿は上目づかいに皐月を見る。
「……え、と……ガキの頃にメーワクかけてごめんなさい」
他に何もいえなかったので、とりあえず謝ってみた。
皐月は瞬きをする。そうしてゆっくりと、緊張の糸がほどけたように笑った。
「やぁね、そんなにお姉様孝行したいって? じゃ、自転車に乗せてもらおうかしらん」
「マジですかーーーッ!」
かくして優駿は二人分の荷物+皐月を乗せた自転車を押して帰宅する羽目になった。
]]>桜花さんとウとサギと菊花さんhttp://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=342007-07-01T00:10:05+09:002007-06-30T15:11:26Z2007-06-30T15:10:05Z『♪うーさぎ うさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月さま見て跳ねる』
季節はずれの鼻歌を歌いながら桜花が上機嫌で帰宅した。
手には大きなショッピングバッグを持って。
たまたまそれを聞きつけた相馬家唯一の男は「桜花姉ちゃんが壊れた」と口を滑らせたが、幸...十和田 茅033:白鷺
季節はずれの鼻歌を歌いながら桜花が上機嫌で帰宅した。
手には大きなショッピングバッグを持って。
たまたまそれを聞きつけた相馬家唯一の男は「桜花姉ちゃんが壊れた」と口を滑らせたが、幸いなことにその台詞は本人には聞こえていなかったようである。
「きくちゃん、きくちゃーん」
桜花は機嫌良く、妹・菊花を呼んだ。いそいそと彼女の部屋のふすまを開ける。菊花は自室で詰め碁をやっている最中だった。
「あんた、また若々しくない趣味を……」
「何か用?」
趣味のことを非難される筋合いはないとばかりに、菊花の微笑みは少し冷たい。
いわれて桜花は先ほど買ってきたショッピングバッグの中身を開けた。
「お願いよ、きくちゃん。これ、ちょっと着せてみてよ」
中身は浴衣だった。
「あら可愛い」
「でしょー♪ あんまり可愛いから買っちゃった♪」
黒地に白いうさぎが跳ねている柄だ。銀で三日月らしいデザインも入っている。そこに細かく散っている桜模様が入っていて、帯もそれに合わせて濃淡ピンクの桜模様にした。
菊花が頷く。
「月に兎は秋の模様だけど、そこに春の柄である桜が散ってるから通年で使える模様になってるのね。これなら夏の装いとしても着られるわね、姉さん」
「そう? よくわかんないけど可愛いじゃない?」
「そう、春と秋の模様が一緒にあるのは通年仕様なの。和服は特に季節感が大事なんですからね。最近は和風小物も季節感がなくて、そういう風習は私の好みじゃないのよ。桜模様は、桜の季節が過ぎて着るのは野暮ってものなの。日本で正月にクリスマスツリーを飾ってるのと同じ感覚なの」
伝統を重んじたり古典的なものを好む菊花は、桜花が感覚的に「可愛い」と思う桜模様も夏のコスチュームである浴衣に使うのは苦手らしい。
桜花は逆に、その人に似合えば堅苦しいルールを厳守する必要はないと考えるタイプである。洋服を縫うのを仕事にしている桜花は、自分に似合う色やデザインを知っている。大人びた古典的な模様よりも少し甘さのある現代的なデザインのほうが絶対に自分に似合う。
「でね、これ着せてほしいなぁ、って」
あいにくと桜花は自分で浴衣の着付けができない。母もできない。こういうのは相馬家の場合、若々しくない趣味の持ち主である菊花の仕事なのである。
菊花は二つ返事で頷いた。
*
「この浴衣は昼のお出かけのほうが映えるわね。夜のお出かけには白地の浴衣のほうが、色が浮いて目立つから」
声をかけながら菊花が、浴衣のおはしょりを作る。
「ああ、そうかも。黒地だと、闇夜の鴉って感じ?」
「そうそう」
腰ひもと胸ひもを結わえる。
だけど、と桜花は浴衣の柄を見下ろした。白い兎は、夜のほうが映えるかもしれない。
「モノトーンがメインだと、昼夜どっちでも似合うからいいわよね。白と黒……ウとサギで、ウサギー♪ なんちゃって♪」
冗談のつもりだったのだが、菊花からはまともに氷の視線が返ってきた。
自分でも十分寒かったと思うがこの妹からの無言のツッコミはさらに怖い。
「そんなに怒らないでよ、ちょっとくだらないこといったからって〜」
「寒かったわ」
この妹は容赦ない。
さらに菊花は手際よく帯を巻いて、結んで、形を作っていく。
「鵜と鷺といえば……黒白のことを本当に、鳥の名前を使って鵜鷺(うろ)とかいったりもするのよね。囲碁のことをこう呼んだりもするのよ。烏鷺(うろ)と書くほうが有名だけど。あと同じような意味で鴉鷺(あろ)とか」
「あ、そうなの?」
鵜もカラス(烏、鴉)も黒い鳥だ。
「白い鳥って白鷺だけ?」
「この場合はね」
桜花は想像力の翼を羽ばたかせた。白い鳥ならカモメでも鶴でもよさそうなものだが、白鷺という名前からは本当に純白の美しい鳥のイメージが浮かぶ。昔、図鑑で見たことがあるような気がする白い鳥を思い浮かべて桜花はうっとりとした。
「なんかきれい……」
「別名、雪鷺(せつろ)ともいったりするけど」
「わー、もっと綺麗♪」
桜花の脳裏には、白い景色にとけこんだ雪の中にたたずむ白鷺の姿が浮かんでいた。
闇夜に鴉、雪に鷺。見えないものの形容である。雪と見まごうばかりの白さから囲碁の白を現す言葉になったのだろうか。桜花には、静かで雪のように冷たい、闇夜に鴉よりもずっとずっと綺麗なイメージが浮かんでいた。
というところで、菊花が思い出したようにぽつりと呟いた。
「そもそも白鷺という名の鳥はいないのよ」
「そうなの!?」
夢想から現実へと引き戻される。
菊花はこっくりと頷いた。
「そうなの。ダイサギ、チュウサギ、コサギ等々白っぽい色したサギ類の総称なの。クロサギって鳥は正式名になってるのがいるんだけど、これも日本では黒色型が多くみられるってだけで白色型も存在するの」
「……クロサギって名前の白い鷺……?」
それもどうかと思う。
菊花はにこやかにいった。
「本当に、サギみたいな話でしょ♪」
菊花の下手なだじゃれに、桜花は深い深いため息をつく。
このくだらなさ、間違いなく自分たちは姉妹だ、と痛感した。]]>秋華さんは見た!http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=332006-11-17T11:15:29+09:002006-11-17T06:11:00Z2006-11-17T02:15:29Z 最近は日が落ちるのも早くなった。
秋華は玄関先で寒さに震えていた。日中が暖かく冬にはまだ早いため、防寒対策は万全ではない。
夕日が真横から射し込んでくる。落日までもう間がない。
やがて、近づいてくる足音が耳に入ってきた。秋華は期待を込めて、胸の...十和田 茅032:鍵穴
秋華は玄関先で寒さに震えていた。日中が暖かく冬にはまだ早いため、防寒対策は万全ではない。
夕日が真横から射し込んでくる。落日までもう間がない。
やがて、近づいてくる足音が耳に入ってきた。秋華は期待を込めて、胸の前で両手を組む。現れたのは兄だった。
「秋華? お前、何してんの?」
家にも入らずに、と続いた兄の言葉は聞こえなかった。それよりも先に秋華が口を開く。これ以上なく瞳を輝かせながら。
「お帰りなさいませ、お兄様ッ!」
兄がドン引きしたのを秋華は見た。
「お前、何やらかした……?」
「ひどっ。それが可愛い妹に対する言い草!?」
「普段、人のことを『馬鹿兄貴』とかさんざんいってるお前がゴマをするなんて、どうせまた何かの尻拭いだろう!」
腹の立つ台詞をいってくれるものである。秋華は心の中で「その暴言、桜花ちゃんや皐月ちゃんに向かっていってみろ」と毒づいた。兄より年長の姉二人の、兄に対する影響力は大きい。相馬家のヒエラルキーの中で兄の立場は低いのである。もしかすると猫より低いかもしれない。
しかしここはぐっと我慢する。西の空はすっかり熟し切った柿色に染まり、太陽の最後の残り火ともいえる熱を残してくれていた。あれが完全に落ちれば闇と寒さまっしぐらである。
秋華はひとつ大きく深呼吸をして、自分がここに突っ立っている理由を簡潔に説明した。
「鍵がないの」
秋華は鍵っ子である。
ところが、たまたま今日に限って家の鍵がついたキーホルダーを部屋に忘れて出ていってしまった。秋華が小学生くらいまでは「念のために」と外に鍵が隠してあったのだが、不用心だからという防犯上の理由で、秋華が中学にあがってから置かなくなったので当てにはできない。
つまり久しぶりに閉め出しをくったわけである。
「桜花ちゃんに電話したら今日は遅くなるんだって。皐月ちゃんとは連絡とれないし」
だから誰かが帰ってきたら開けてもらおうと思っていたのだ。
このままどんどん寒くなるから、日暮れまでに兄が帰ってきてくれたのはありがたい。
が。
「あのな秋華」
兄は手で秋華を制した。眉間には縦皺が一本、浮いている。
「……悪い。合い鍵持っていく習慣がないもんだから、実は持ってない」
兄の悲痛な声でしぼりだされた告白に、秋華は思わず目を丸くする。
「こ、の……役立たずの馬鹿兄貴!!」
「やっぱり馬鹿っていうんじゃないか、お前は!」
兄は秋華の拳が飛ぶ前に鞄で頭をガードする。女所帯の唯一の男は、すっかり専守防衛がしみついているらしかった。
*
日が完全に落ちた。
真っ暗けである。
おまけに、日没前より鋭さを増した寒さが衣服の上から肌を突き刺すようだ。
「なんかさぁ」
「んー?」
「同じ場所でじっとしてると、寒さ、しみるよねぇ」
「コンビニでも行くか。暖かいもんでも買って」
「おごりね。当然」
「……兄ちゃん泣きたいよ、秋華……」
とりあえず二人は一時コンビニに避難した。
そうして二人が戻ってくると家の前に人影があった。プリーツスカートと三つ編みの影から、はっきり見えなくても誰だかわかる。
「帰ってたのか、菊花」
「菊花ちゃん!」
相馬家の三女は暗闇の中、ゆっくりと振り向いた。
「あら、兄さん。それに秋華ちゃんも。珍しく家に灯りがついていないからちょっと違和感を感じていたのよ」
おっとりとした声でそういった。対し、優駿と菊花はせき立てるように声をそろえる。
「鍵は!?」
菊花はきょとんとする。そうして、黙って首を横にふった。秋華は脱力する。三人も雁首そろえていながら結局誰も合い鍵を持っておらず、閉めだされたままということか。
「サイテー……」
「入れないの?」
「そうよ!」
「ね。漫画みたいだけど、ヘアピンでなんとかならないかしら」
姉はおっとりと微笑みながらとんでもないことをいった。
「それじゃホントに漫画みたいじゃん」
「試してみていいかしら?」
そうして姉は髪からヘアピンを一本抜き、鍵穴に差し込んだ。
カチカチと音がする。
ごくりと、息を潜めてその様子をうかがう。
なにしろ『あの』菊花なのだから、もしかして、もしかしなくても、なんとかなるかもしれない。
だが聞こえてきたのは解除の音ではなく、菊花の苦笑だけだった。
「……駄目ねぇ。ピンは差し込めても、うまく引っかからないわ」
鍵穴に差し込まれたヘアピンは音をほとんど立てずに引き抜かれた。秋華はまたしても脱力する。期待した分だけ、ちょっとつらい。
まあまあ、と兄が慰めてくれたが、秋華には白々しく聞こえた。秋華にできるのは精一杯八つ当たりをすることだけである。
「だいたいねぇッ! こーんな手元が暗いところで、ヘアピン程度で鍵開けできたら世の中、鍵なんていらないのよッ、泥棒入り放題じゃん!」
「お、落ち着け、秋華。それでも世の中にはピッキング専用工具で似たよーなことをやって鍵開けして泥棒に入る人だって……」
「だったらその人、連れてきなさいよ! その道具持ってきなさいよ! 馬鹿兄貴なんかさっきから全然役に立たないんだからァ!」
「無茶いうな!」
自分でも無茶なことをいっていると思う。それでもとにかく出口のない憂さを晴らしたくてひたすら兄に怒鳴り続けた。姉が、なにやら鞄の底を探っていたのは目の端にかすめていたが、秋華はそれどころではなかったのである。ドアの前では一人、菊花がカチャカチャと鍵穴をいじる音。
秋華と兄がひたすらどつき漫才を繰り広げているその最中、菊花の手元で涼やかな開錠音がして、ドアが開いた。
思わず秋華と優駿はそちらに顔を向ける。
「開いたわよ」
それはまさに天使が発した一言であった。秋華は兄を放り出し、姉を賞賛した。
「すごーい、菊花ちゃん、どうやったの?」
これでもう寒さに震えることもなく、真っ暗けの不安感もなく、そうしてもう少ししたら温かいごはんが食べられる。安心しきった秋華に、菊花は微笑みを浮かべた。
そこで、秋華は見てしまった。
口元に笑みを貼り付けたまま、姉の眼鏡の奥で、瞳が半眼になる。
「それは秘密です♪」
秋華と優駿は恐怖で凍り付いた。
「どうしたの、二人とも。家に入るわよ?」
菊花は家の中に入り玄関の灯りをつける。家主の帰宅を待っていたらしい猫がちょこんと玄関マットの上に座っていて、尻尾をたたきつけて怒りをあらわにしていた。このお嬢様、どうやらごはんの時間にごはんが用意されていないことに大変ご立腹であるらしい。
「あらあら、遅くなってごめんなさいね。おなかすいたわよね、オークス。ちょっと待っていてね」
ぱたんとドアが閉まった。外に二人を残したまま。
*
秋華と優駿は体を小さくして震えていた。
「こ、怖かった……! 絶対! ずえったい! 相馬家のヒエラルキーの頂点って、菊花ちゃんだと思う!」
「頂点かどうかはさておき上にいるのは間違いないと思う……我が妹ながら恐ろしい……いったい何を隠してたんだろうか」
無力な妹と兄は、自分たちの真ん中にいる影の実力者に逆らうのはやめよう、と改めて肝に銘じるのであった。]]>カップベンダーの褐色の思い出http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=322006-10-26T15:33:41+09:002006-10-26T06:37:36Z2006-10-26T06:33:41Z 秋も深まりだんだんと寒くなってきた。
学校の食堂前の自動販売機は、昼食時と下校時、そこそこのにぎわいをみせる。ここの自販機はカップベンダー式で、50円で買える温かな一杯は、貧乏な高校生を色んな意味であたたかくしてくれる。
優駿も友人二人と、今日も...十和田 茅031:ベンディングマシーン
学校の食堂前の自動販売機は、昼食時と下校時、そこそこのにぎわいをみせる。ここの自販機はカップベンダー式で、50円で買える温かな一杯は、貧乏な高校生を色んな意味であたたかくしてくれる。
優駿も友人二人と、今日も自販機の前にいた。
「砂糖なし、ミルクなし、と」
「お。ダービー、ブラックで飲むのか?」
鈴木は砂糖多めのミルク少な目。田中はミルク多めの砂糖なし。優駿はコーヒーのときはブラックだった。かといって、甘いものが苦手だというわけではない。
「甘いのが欲しいときはココアにするし」
「へー。こーいうカップのココアだと飲み終わった後、底に粉、たまってないか? オレ、あれ駄目なんだ」
「それはあんまり気にしたことなかったなー」
優駿は紙コップに口を付けた。苦い味が口の中に広がる。実をいうと、あまりおいしいとも思わなかった。ただなんとなくブラックコーヒーに思い入れがあるだけである。
いつか大人になったらコーヒーをブラックで。
子供の頃、紙コップに入ったココアを飲みながらそう聞いた。
*
優駿の一番古い記憶は、三歳の11月までさかのぼれる。
七五三である。優駿の三歳の祝いで、同時に姉・皐月の七歳の祝いでもあって、姉は「赤い着物はイヤ。ももいろの着物はもっとイヤ」とさんざん駄々をこねていた。
結局姉が何色の着物にしたのか記憶にはないが、残っている写真を見ると水色の着物を着ていた。ただ金糸が目立つ黒い帯以外の小物はすべて赤で、おそらくそれが原因だろうと思うのだが、写真に写っている姉の表情はふてくされていた。
その隣には晴れ着を着た三歳の自分が、ものごとを把握してませんといった顔でつったっている。
記憶があるのはほんの一瞬。ちょうど写真を撮ったあとだったように思う。
晴れ着を脱いで――思えばあれはレンタルだったのだろう――出てきたら母たちはいなかった。母と祖母は姉二人とひとつ下の妹にかかりきりになっていて、優駿にかまっている余裕はなかったのだろう。いたのは父である。
男はこういうときしょうがないなと、父は笑っていて、幼い優駿の手をひいていった。
薄明るい部屋。黄色っぽい照明。自動販売機とその隣に置かれた観葉植物。三歳児の自分は高い背の父を見上げていた。お金を入れる音。指は迷うことなく特定のパネルを押して、やがてピピピッと機械音があがった。
差し出されたのは温かいココア。
父が何かいう。熱いから気を付けろだとか、甘いほうがいいだろうとか。そのあたりは覚えていない。
赤いベンチに並んで腰掛けて、ふーふーと、さましながらなんとか飲んだ。
「まぁ、いずれはコーヒーをブラックで飲めるようになるさ」
意味もわからず優駿は頷いた。
ただそれだけの記憶である。
それでもなんだか妙に記憶に残っていて、ココアを飲むたびにとか、姉がコーヒーを飲むたびにとか、その記憶がふと蘇って結局今まで忘れないでいた。そのうちにコーヒーをブラックで飲むようになったのはその思い出のせいかもしれない。
*
家に帰ると、挽きたてのコーヒーの香りがただよっていた。
「あっ。姉ちゃん、もう一杯追加して!」
一番上の姉・桜花はコーヒーが飲めない。コーヒーを好むのはすぐ上の姉・皐月である。
珍しくいれたてのコーヒーを飲むことが出来て優駿はそれをじっくりと味わった。
「あー。自販機のコーヒーより断然うまーい。やっぱいいやつはブラックで飲むとうまいよなー」
「生意気いうんじゃないの、高校生が」
思い出したついでに、優駿は姉に七五三のときのことを聞いてみた。
「それ違うわよ。私が優駿にココア飲ませたのよ」
「……は?」
「だから。母さんたちが忙しくて、当事者の私たち二人は放り出されて、寒かったしあんたはぐずってくるしで、みっつのあんたの手を引いて私がココア買って飲ませたのよ。赤いベンチんところで」
「ええ?」
ところがこの話を耳にした桜花がさらに口を挟んだ。
「それ違うわよ。ゆうくんにココア飲ませたの私だってば」
「はぁ!?」
「お母さんたちはさっちゃんにかまってて忙しくて……まぁ私もかまってもらえなくてふてくされていたせいもあるんだけど……だから、ゆうくんの手を引いてその場から離れて、二人でココア買って飲んだのよ。そうそう、観葉植物のあった赤い自動販売機!」
さらに母がいった。
「何いってるの。あんたたちが七五三のときはお母さんが優駿の面倒みてたんでしょ」
「えーッ!?」
「おばあちゃんとお父さんには大きい子供達を見てもらってたんだから。まだ小さい優駿と菊花をみてたのはお母さんよ。はっきりと覚えてないけれど、優駿と菊花、ふたりともにココアを飲ませて機嫌とってたんだから」
「それ違うって!」
「私が!」
「私よ!」
「私だってば!」
真相は藪の中……になってしまった。
当時二歳だった妹・菊花はやんわりと笑った。
「で? 兄さん、どれが真実だと思う?」
「……もうどうでも。それぞれ自分が記憶してたことが真実だと思っててくだサイ……」
優駿は深い深いため息をついた。
ひとつのネタで女三人ぎゃあぎゃあと、今日も相馬家は姦(かしま)しい。]]>桜花さんvsおばさんhttp://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=312006-09-28T00:34:44+09:002006-09-27T15:34:44Z2006-09-27T15:34:44Z 桜花の職業はパートタイムのソーイングスタッフである。お針子さんである。
彼女の出勤時刻はサラリーマンのそれとは違ってもう少しゆっくりしている。ちょうど朝から昼に変わるころの、ぽかぽかと暖かい日差しが車窓から入る、そんな時間。同じ時間帯の電車を使う利...十和田 茅030:通勤電車
彼女の出勤時刻はサラリーマンのそれとは違ってもう少しゆっくりしている。ちょうど朝から昼に変わるころの、ぽかぽかと暖かい日差しが車窓から入る、そんな時間。同じ時間帯の電車を使う利用客の顔ぶれは決まっているようで決まっていない。
いつも新聞を読んでいるおじさん、上から下まできちっと決めてうたた寝している女子大生などなど。きっと相手も桜花のことを知っているだろう。たまに目の下にくまを作っている不思議な女性客として。
桜花は今、ちょうど目の下にくまを作っている時期だった。
納期が近いのである。
パートとはいえ、納期は待ってくれないんである。「いついつまでに」といわれた仕事は、たとえ仕事量が少なくても膨大でも、その期日までには納めないといけないんである。はっきりいって修羅場である。
そんなわけで桜花はいつもよりイライラしていた。
そんなときである。
ぱちん ぱちん
何かが弾けたような音が続く。
目を閉じてロングシートに座っていた桜花は漠然と耳障りだと聞いていたが、音がやむ気配はない。
目をあけて音の出所がどこかさがすと。
電車の中で爪を切っているおばさんが目に入った。
あぜんとした。
爪はそのまま通路に捨てている。
まわりは誰も見て見ぬふりをしている。ときどき、ちらり、ちらりと「おばさん」のほうへ視線を向ける者もいたが、皆黙っていた。
桜花もまた、無視することに決めた。一言注意するだけで刺されたりする昨今である。こんなことで怪我するのも馬鹿馬鹿しい。
(さっさと切り終われッ!)
腹の中で毒づいて、桜花は再び目を閉じた。
が。
こーいうもんは、一度気になってしまうと、とことん耳に付くものなのである。
ぱちん ぱちん ぱちん ぱちん
桜花のストレス度がそのたびにあがっていく。
イライラ イライラ イライラ イライラ
ただでさえストレスを抱えていてイライラしやすくなっている桜花である。目を開けて、通過した駅の名を読む。目的の駅までもう少しだ。
(とっとと終わりなさいよッ。というか、電車の中で爪切りなんて非常識なことするんじゃないわよッ)
その感情は、はたして正義感といっていいのだろうか。
長女として下に四人もきょうだいがいれば、自然と「○○しちゃ駄目!」という台詞も多くいってきた。だから、人よりも余計に道徳観念にうるさくなっているのかもしれない。
だんだんと音が気になるというより「おばさん」の非常識な態度にイライラするという方向にシフトしていった。
イライラ イライラ イライラ イライラ
(注意する! 絶対、する! 我慢できない!)
心の中で何度も自分にそう言い聞かせる。
だけども、注意したことで逆ギレされたらどうしようだとか、注目を集めるのは恥ずかしいだとか、決意を鈍らせるような思考回路も同時に自分の中からあふれ出してくる。
いつのまにか心臓が早鐘を打っていた。
降りる駅まであと一駅というときになって、腹を決めた桜花は立ち上がった。
「ちょっと、おばさん!」
おばさんの前に仁王立ちになる。
当の本人は、目を丸くして桜花を見上げた。
(私は、あんたの行動に目が丸くなったわよッ)
おばさんの態度に、口に出すより先に心の中で反論してから、桜花は口を開く。
「電車の中で爪切りなんかするもんじゃないでしょう、やめてください!」
堂々とした態度で桜花は言い切った。
内心は震えまくりである。
おばさんは、それこそあぜんとして……まさかそんなことをいわれるとは思っていなかったという表情で。
そこまで読みとってから桜花は自分が座っていた場所に戻った。
行動に移る前よりも、移った後のほうが心臓がうるさかった。手に震えも走っている。
爪を切る音は、やんでいた。
アナウンスが、降車駅の名を告げた。「おばさん」の目は怖かったけれど、そちらを向かず桜花は逃げるようにして降りていった。
*
なんとなくいいことをしたような、そんな一日の始まりだった。
*
で。
桜花の仕事は、仕事量に変動して夜が遅くなる。昨日も残業、今日も残業、明日もきっと残業だろう。
行きの電車と違って、帰りはサラリーマンの帰宅時間よりさらに遅い満員電車。
今日も座れないだろう、と桜花はくたくたになりながら電車に乗った。立っている人も多いけれど、それでもどこか空いていないかとロングシートを目で追いかける。
そうして、桜花は見つけてしまった。
今朝の「おばさん」の顔を。
(ひ〜〜〜っ!?)
行きの威勢はどこへやら。
まさか行きも帰りも同じ電車になるとは思わなかった。もしかしたら、これからも通勤電車で顔なじみになるかもしれない。そんな人とこれからずっと顔をあわせていかなければいけない(かもしれない)んである。
余計なことしなきゃよかった、と桜花は心で泣いたが後悔先に立たず。
(せめて相手に見つかりませんように〜)
桜花は昇降口の近くで小さくなって立っていた。もちろん「おばさん」に背を向けて。]]>夏の大三角を追えhttp://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=302006-08-31T23:57:22+09:002006-09-10T13:25:48Z2006-08-31T14:57:22Z 夏である。
優駿は夜空を見上げていた。
「……そろそろペガスス座の季節がやってくる、か」
中空には目立つ星がみっつ。それぞれを繋ぐと大きな三角形に見える。
不思議とこういう目立つ三角形が春・夏・冬それぞれの夜空にあって、大三角と呼ばれている。秋だ...十和田 茅029:デルタ
優駿は夜空を見上げていた。
「……そろそろペガスス座の季節がやってくる、か」
中空には目立つ星がみっつ。それぞれを繋ぐと大きな三角形に見える。
不思議とこういう目立つ三角形が春・夏・冬それぞれの夜空にあって、大三角と呼ばれている。秋だけがない。三角形のかわりに、秋はペガスス座の一部である大きな四角がある。
特に夏の大三角はよく目立って面白い。七夕にちなんだ神話があるのも、天体に興味がない誰かに説明しやすい。夏の大三角は織姫星と彦星、かささぎの一部を繋いでできあがるのだ。
「あーあ。天の川が観測できるようなところ、行きたいなぁ」
優駿の自宅からは天の川が見えない。夜空を見上げながらついそんなことを思うのだ。
*
ある日、昼ごはんの席でそんなことをぽつりと漏らしたら、一番上の姉・桜花がいった。
「天の川? むかーし、田舎で見たことあるような気がするけど??」
すぐ上の姉・皐月が同調する。
「すごーく昔よね。優駿が生まれる前くらいの話。だってあれ、お父さんの田舎だもの」
「長いこと行ってないわよねぇ。さっちゃんも小さかったもんね」
優駿と皐月は4つ離れている。
「い、行きたい!」
思わず立ち上がってそういっていた。
姉二人は目を点にした。
「今から? どう行くのよ。姉さん、場所知ってる?」
「さっちゃーん、これ、お母さんの昔のアドレス帳から出してきた住所。お母さんが車、貸してくれるって」
「私に車を出せ、と? うっわ遠い」
「あそこ、田舎だから電車がないのよね〜」
持つべきものは行動力のある姉である(そしてカーナビがついた車だ)。
優駿はその日のうちに田舎へとひた走る車に乗っていた。
姉二人が運転手とお目付役として同行している。妹たちは今回留守番だ。
「うわー、初めて姉ちゃんたちの弟でよかったと思ったー♪」
「なぬ?」
……地雷を踏んだらしいが、今の優駿は気にしない……ことにしておく。
*
空気の澄んだ高原。まわりになにもない田んぼのあぜ道。
車を停め、一歩外に出て、優駿は叫んだ。
「なんじゃこりゃー!」
歳月は着実に小さな片田舎にも光をもたらしていた。
ここらは車が唯一と言っていい移動手段である。大きな道路が通っており、車がしょっちゅう行き来する。街灯が等間隔で設置されており、こうこうとした灯りを提供していた。
そう、夜空が、明るいのである。
天の川など望むべくもないほどに。
天頂には夏の大三角。こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブが燦然と輝く。
「あんまりだー! 0等星のベガでさえ、あの程度の光にしか見えないなんてー! ノーザンクロスだけははっきり見える程度の夜空なんか、うちでも見られるのにー!!」
優駿の叫びとは裏腹に姉たちはのんきなものだった。
「よかったわね、きくちゃん連れてこなくて♪」
と桜花がいう。妹・菊花も星を見るのは好きなのでがっかりさせたくなかった。そう、姉たちはこの事態を薄々予想していたのである。
「コンビニくらいは出来てると思ってたけど正解だったわねー。じゃ、少し寝るからアレの気が済んだら起こして」
といって皐月は運転席のシートを後ろに倒した。長年疎遠になっている父方の田舎に顔を出す気は、二人ともさらさらない。
「あんまりだー!」
もう一度叫んで優駿は車に積み込んでおいた天体望遠鏡を設置しはじめた。空はたしかに明るいが、田舎だけあって見える星の数は普段と比べると倍近く違う。
これをしっかり見ずに帰ってはもったいない。
優駿は自分の貧乏性を呪った。]]>桜花さんと、季節はずれの菜の花畑http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=292006-08-11T01:37:58+09:002006-08-10T16:37:58Z2006-08-10T16:37:58Z ――相馬家長女・桜花さんはこの時期、旅に出ます。
「それでは、さっちゃん、ゆうくん、きくちゃん、しゅうちゃん。おねいちゃんは旅立ちます。おうちのこと、くれぐれもよろしくお願いします」
桜花は玄関先で深々と頭を下げた。
眼鏡の奥に見える目の下には、...十和田 茅028:菜の花
「それでは、さっちゃん、ゆうくん、きくちゃん、しゅうちゃん。おねいちゃんは旅立ちます。おうちのこと、くれぐれもよろしくお願いします」
桜花は玄関先で深々と頭を下げた。
眼鏡の奥に見える目の下には、通称森の熊さんがでんと居座っている。
その桜花を見送る妹たちと弟は、毎年のことながら生ぬるい空気をかもしだしていた。
次女・皐月がいった。
「まぁ、死なない程度に。毎年のことだけど」
冷静な台詞である。人混みにもまれて毎年毎年死にそうになって帰宅する桜花を、これでも気づかってくれているのだろう、と好意的に受け取る。
三女・菊花がそっと栄養ドリンクを差し出した。
「徹夜明けの状態よりはましな顔色してるけど、とりあえずこれ、お餞別」
「あ〜り〜が〜と〜〜〜」
やはり気配りの出来る妹は違う、と桜花が感動しているところへ四女・秋華がずばっと一言。
「毎年のことだけど、季節はずれの『おぼろ月夜』歌いながら締め切り前にお花畑見てるくらいなら、どうして夏コミ行くのやめられないの?」
ぐさり。
すかさず皐月と菊花の声が、秋華に飛ぶ。
「バっっカ……! 桜花姉さんに同人やめろなんて、あんたに音楽やめろといってるようなもんじゃないの!」
「秋華ちゃん、魂かけた好きなことはどれだけお花畑見る羽目に陥ってもやめられないものよ?」
皐月と菊花のフォローがまた桜花のガラスのハートに容赦なく突き刺さった。
理解のある家族と喜ぶべきか、泣くべきか。
弟・優駿が桜花の顔色に気づいて顔色を失ったが、相馬家唯一の男として日々虐げられている彼はそれ以上何も言葉を発することもできず固まっていた。賢明な判断かもしれない。少なくともこの場では。
目の前に菜の花畑が浮かんでは消えた。今年は競争率○倍の難関を突破してせっかくブースがとれたのに。締め切りという名の修羅場を突き進むたび、なんど「お花畑」=幻覚をみるほど追いつめられた精神状態から帰還したことか。
「菜のは〜なばたけぇに〜、い〜り〜ひ薄れ〜〜〜♪」
「ああッ、桜花姉さんが壊れたッ」×4
桜花はキャリーバックをがらごろ引きながら我が家を後にした。涙で目の前がかすみ、清少納言も賛美した夏の月は、さながらかすめるおぼろ月夜にか見えなかったとかなんとか……。
***
菊花がぽつりという。
「夏の祭典って、明日からよね?」
皐月が頷いた。
「印刷所からあがってきた本は全部あっちの友人宅に送付済みだそうよ。身ひとつで移動できるだけ姉さんはマシなほうじゃない?」
秋華が首を振った。
「やだやだ。なにが悲しくて自宅を前日出発、三日間友達ん家に泊まり込みなんだか」
それに答えて皐月が「そりゃー、あますことなくイベントを楽しむためでしょー」と、けらけらと笑う。菊花も穏やかな微笑みを浮かべた。
そのあいだ優駿は姉のシフト表を見ていた。そしてある事実に気づく。
「……桜花姉ちゃん、来週も休みとってる」
「ん?」
「もしかして、さぁ……行くんじゃないの? 東京だけじゃなく、インテックス大阪のほうにも……出店するかどうかまで聞いてないけど」
「………………」
相馬家きょうだい全員の脳裏に、小学校唱歌「おぼろ月夜」が木霊した。黄色い花畑の向こうで「あはは」「うふふ」などといって踊っている長女の幻影が見えるのは気のせいか(反語)
足下でにゃおんと飼い猫が鳴いた。主人達の間に流れる空気などおかまいなしに、今日も彼女はひとり(一匹?)平和である。
今年も夏の勇者たちに幸あれ。]]>菊花さんのすれ違いhttp://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=282006-07-02T23:51:59+09:002006-07-05T05:58:02Z2006-07-02T14:51:59Z 菊花は電車通学である。
駅改札を通ってすぐのところにある電光掲示板には、次発が何時に出るかが表示されている。
菊花は自分の腕時計を見た。あと10分もある。
駅構内に同じ学校の制服を着ている人間は、まばらだった。
今日は部活動があったので遅く...十和田 茅027:電光掲示板
駅改札を通ってすぐのところにある電光掲示板には、次発が何時に出るかが表示されている。
菊花は自分の腕時計を見た。あと10分もある。
駅構内に同じ学校の制服を着ている人間は、まばらだった。
今日は部活動があったので遅くなった。真っ暗になるまで活動している運動部と違い、文化系の部は終了時間がまちまちなので、駅に同じ学校の人間が密集しているという帰宅風景にはなりにくい。
それに、あまり認めたくないがマイナーな部が多いので、部活動が終了しても駅に一斉に制服があふれるという事態にはならないのだ。
構内に設置されている椅子はすべてふさがっており、菊花はいつもの昇降場所付近に立って電車を待った。「いつもの」改札、「いつもの」降り口、毎日行うことだから菊花は行動をパターン化している。帰宅の時は先頭車両の一番前の入り口から乗り、降りたら右から二つ目の改札を出る。
電車の場所は降りる出口に一番近いところに陣取るため。改札の場所はただなんとなく。
構内アナウンスが、反対車線に電車が来たことを告げた。
菊花は時計を見る。この時間帯であれば、向かいの線路の電車が来てからしばらくして、菊花の乗る電車が来るはずだ。菊花は確認するように電光掲示板に目をやった。菊花の立つ位置からも電光掲示板がよく見えた。
そうやって視線をあげると、いつもの駅の風景に、いるはずのない人の姿が目に入った。
向こうの相手も菊花に数秒遅れて、気が付いた。
目と目が合う。
どうしてここにいるのだろう。双方の目がそう語っていた。
そうしてお互いに、そっと視線をはずす。何事もなかったように。
中学時代、仲の悪かった相手だった。
彼女がどこの高校に進んだのか菊花は知らない。彼女も知らなかったはずだ。
だけど制服を見れば一目瞭然で、彼女の学校は菊花の学校の最寄り駅よりも二つ向こうの駅が最寄りである。この駅で乗り降りすることはないはずだ。
彼女は菊花と少し距離を置いた場所に立った。中学が同じということは降りる駅も同じということで、彼女もまた出口の近くの車輌に乗るタイプのようだ。
お互い、無言だった。
電光掲示板が示した次の電車まで、あと5分。
聞きたいことは色々あった。なぜこの駅で出会うのか。もしかしたら、先ほど着いた別の電車に乗っていたのか。同じ出会うにしても、向こうのほうが遠い駅を使っているのだから電車の中で出会うほうが自然だったのではないか。高校一年生のときからこの駅を利用しているがそれまで一度も彼女に出会ったことはなかったのに、なぜ今頃。
時計を見ると、電車が来るまであと3分もある。この沈黙が電車の中でもずっと続くのかと思うとさすがに気詰まりだった。
二人の間にある空気が、お互い相手を気にしていることを伝える。だが、どちらからも相手に話しかけることはなかった。気詰まりな沈黙が続く。
菊花が何度目かの時計を見たときだった。
「○番線に電車が参ります」
構内アナウンスが静寂を破った、ような気がした。
電車がゆっくりと減速しながらホームに入ってき、「いつもの」ように菊花の目の前で扉が開く。
菊花はそれに乗った。彼女も、その電車に乗るものだと疑いもしなかった。それが誤りであったことに気づいたのは、彼女からの視線をホームから感じたときだった。
菊花が振り返る。彼女は電車に乗ることなく、そこに立っていた。なぜ、と問いかけるような菊花の視線を彼女は真正面から受け止める。
「引っ越したのよ」
ただ、そう一言。
扉が閉まる。電車がゆるやかに動き始める。一度動き始めた電車はスピードをあげて駅から出ていき、菊花は窓からずっとホームの彼女を見ていた。駅が、遠ざかる。電光掲示板が一度真っ暗になり次に発車する電車の時刻を新たに示した。
もう二度とあの駅で彼女に会うことはないように思えた。
*
「……電光掲示板と聞くと、なんとなくそのことを思い出すのよ」
と菊花は頬杖をつきながら姉妹達に向けて苦笑してみせた。
一番上の姉が瞳をうるませる。
「いいお話だわ〜。私なんて電光掲示板なんていわれても店先でぴかぴか光ってる宣伝しか思い浮かばないのに〜」
その後ろで二番目の姉と妹がいった。
「電光掲示板というと競馬の着順を表示するやつを一番に連想したなー」
「それいうと桜花ちゃんに怒られるよ。ギャンブル嫌いなんだから」
そうして妹は側で丸くなってすやすや眠っている飼い猫の頭をなでながら、ぐさりと一言。
「てかさぁ? その菊花ちゃんのトモダチ? ライバル? その人、たんに引っ越ししたばっかで間違えた電車に乗っちゃったんじゃないのー?」
上の姉と下の姉がすぐにそれに乗った。
「ああ! ありうるかも! 実は上り電車側なのに間違えて昔の家があった下り電車に乗っちゃったとか?」
「そういや菊花の学校の最寄り駅って、すぐに反対側の電車がくるのよねー。間違えたことに気づいて降りて、そんでその反対側の電車に乗ろうとしたところを菊花に見つかって乗るに乗れなかったんじゃない? ライバルに情けない姿見られるより、謎な女を演出したほうがマシだと思ったとか」
「きっとそうよ〜。そうに違いないわ〜」
姉と姉と妹たちの会話を聞きながら菊花は遠い目を虚空に向けていた。
謎は謎のまま、あんまり気づきたくなかったかもしれない。]]>皐月さんは願う「世界をあなたに」http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=272006-06-14T00:53:52+09:002006-06-13T15:53:52Z2006-06-13T15:53:52Z 皐月はその日、文具店にいた。
別に目的があったわけでもない。油絵の具のパーマネントホワイトかジンクホワイトを買ってもよかったし、簡素なデザインの木製デッサン人形を眺めているだけでもよかった。なんとなく落ち着く場所。それが皐月の場合、文具店だった。
...十和田 茅026:The World
別に目的があったわけでもない。油絵の具のパーマネントホワイトかジンクホワイトを買ってもよかったし、簡素なデザインの木製デッサン人形を眺めているだけでもよかった。なんとなく落ち着く場所。それが皐月の場合、文具店だった。
閉店間際の文具店はいっそう静かだった。
その静かな店内に、子供が、走っていた。
「おかーさん、これ買って! これ買って!」
「置いてきなさいッ」
スーパーなどで一日一回はありそうな会話だ。
皐月は興味なかったので、自分の欲しいもののチェックを優先した。しかし子供の声はだんだんボリュームがあがってくる。
「これ買って! これ買って!! これ買って!!!」
母親は何をしているのか、大音量になっていく子供の声に比べてほとんど返答がない。
皐月がちらりと声の方向を見ると、小さな子供がいる。
あいにくと現在身近に子供の姿を見ていない皐月には、その子の実年齢を推し量ることはできなかった。しいていうなら赤ん坊以上、幼稚園未満といったあたりだろうか。女の子のように見える。
「これ、買って!」
彼女の手には、ビニール袋で1パックにされた絵はがき。可愛い子犬の絵がついている。
はがきが1枚50円、あのパックだと10枚入りだからおおよそ500円相当の品物だろう。
その姿に、末妹・秋華が幼かった頃がフラッシュバックした。
相馬家はどうも凝り性の家系らしいが、秋華もその例にもれず、幼少期から好きなものにはとことんこだわる性質だった。よく「小さいもの」「可愛いもの」「変なもの」に執着をみせ、自分の気に入らないことがあると大声で泣いて主張する。
そしてそれがボロボロになるまで飽きずに愛で続けるのだ。
子供の声はさらに大音量になり、静かな店内に響き渡った。
「いいかげんにしなさいッ! 泣いたってお母さん、買わないからね!」
カルシウム不足が心配されるような声で、母親も怒鳴り散らす。皐月はむしろ母親の声に眉をよせた。
皐月はまだ独身で、子供もない。弟や妹の世話をしてきたことはあるけれど、母や姉ほど苦労したわけでもない。だから若い母親の気持ちをくむよりも、泣く子供に感情移入してしまう。
たしかに欲しいといったものをすぐ買い与えるのは、教育上よくない。
それに主婦の財布から使いもしない子供のおもちゃに500円は大きい。
あの母親にとって絵はがきは「はがき」として使うもので、「絵」としてコレクションするものではないからだ、きっと。
だけど、絵はがきはばら売りできるものだ。あの子は子犬の絵が気に入ってるのであって、だったらせめて50円一枚を与えてあげるわけにはいかないのだろうか。
「いやー! 買って、買って、これ買って!!」
声をからさんばかりに泣き叫ぶ子供の手を無理矢理ひいて、若い母親は店を出ていった。
その鳴き声はいつまでも皐月の耳に木霊した。
*
手に入ったものより手に入らなかったものの思い出のほうが強い。しかも歳月によって美化される。手に入らなかったことが悔しくて、悲しくて、そしていつか自分の好きなものを自分が欲しいだけ手に入れられることに憧れるようになる。
皐月は願わずにはいられない。
いつかあの見知らぬ少女が、大きくなったらちゃんと自分だけの世界を手に入れられますように。
皐月は自分の部屋に籠もりながら、イーゼルに真新しいキャンバスを立てかけた。
この部屋が皐月の城。キャンバスが、皐月が手に入れた「自分だけの世界」。
――未来はまるでこのキャンバスのよう。自分の力で描いてゆける、有限の。]]>秋華さんと風邪ひきhttp://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=262006-02-11T15:30:40+09:002006-05-21T13:58:54Z2006-02-11T06:30:40Z 末妹・秋華が風邪を引いた。
「久しぶりに、風邪らしい風邪だわね」
と、体温計をみながら長女・桜花がつぶやく。
きょうだいが小さいときにはよく誰かが熱を出して、連鎖反応的にきょうだいが全員かかるということが珍しくなかったのだが。
いつの頃からだ...十和田 茅025:のどあめ
「久しぶりに、風邪らしい風邪だわね」
と、体温計をみながら長女・桜花がつぶやく。
きょうだいが小さいときにはよく誰かが熱を出して、連鎖反応的にきょうだいが全員かかるということが珍しくなかったのだが。
いつの頃からだろうか。あまり、寝込むような風邪をひかなくなった。
次女・皐月が、桜花の横から体温計の数値を読む。
「あーら、ほんと。結構、熱があがってる」
「さっちゃんは大丈夫?」
「私は平気。姉さんは?」
「私も平気。子供の風邪はすぐに高熱が出てすぐに引くけれど、大人になると、いつまでも長引くような風邪をひくわよねー」
お互い体調には気を付けましょうね、と年長の二人は頷きあった。
*
話のネタにされている秋華からしてみたら、なんとものんきな響きの会話である。
「他人事だと思って〜〜〜」
そう、姉二人の会話は、病人の枕元で行われていたのである。
「やあね、しゅうちゃん。お姉ちゃんはしゅうちゃんのことを思っていってるのよ」
と、のんきな桜花の声。真実みがまるでない。
「そうよ、秋華。よかったわねぇ、試験期間中じゃなくて」
と、笑いを含んだ声は皐月。しかしもうすぐ試験である。勉強などできていない。
桜花は頬に手をやって何事か思案し始めた。
「風邪の民間療法というと……生姜湯でも作りましょうか」
「いやだ〜。あれ、嫌い〜」
秋華は、ガラガラ声のあらんかぎりを出して、嫌がった。
きょうだいの多い相馬家、病人にはある程度の我が儘が許されている。なんと、あの優駿でさえ病気をしたときは姉二人、妹二人からある程度の待遇改善がなされるのだ。そういうことを気にしないお嬢様は相馬家飼い猫オークスのみである。
「病院へ行ったほうが……」
「いやだ〜〜〜。病院、嫌い〜〜〜!!」
我が儘きわまれり。
皐月は、そんな秋華の額に手のひらをのせる。冷たい手だった。秋華の熱があがっているからよりいっそうそう思うのかもしれなかった。
「解熱剤、飲んだんでしょ? すぐ治るって。ね?」
病気をして身にしみる、年の離れた姉たちのありがたさ。秋華は頷いた。
それに比べて年の近い兄姉たちの薄情なこと。
「ひどい声してるんだから、のど飴でも舐めてなさい」
姉たちはそういって飴の袋をくれた。
秋華の大嫌いなハーブのど飴である。
「これ、甘くないから嫌い〜〜〜」
どこまでも秋華の好き嫌いは健在だった。
*
数日のち。秋華の風邪はすっかりよくなった。
口の達者な秋華である。元気になったらさっそく兄と三番目の姉に毒舌をかますことも忘れなかった。
「桜花ちゃんと皐月ちゃんは、私に色々してくれたのに〜。兄貴と菊花ちゃんは、なーんにもしてくれなかった〜。薄情なんだから。ふーんだ」
姉・菊花はどこ吹く風。
兄・優駿は少しうろたえながら、言い訳がましいことをいった。
「しょうがないだろ。全員が倒れるわけにはいかなかったんだから」
「?」
「うつったら困るってんで、僕と菊花には立ち入り禁止令が出てたんだ。ちゃんと、のど飴を差し入れてやったろ?」
菊花の趣味で、一番ききそうなハーブの飴になったけれど、と兄はいう。
後ろで菊花が微笑んだ。
そういえば、ことさら自分が嫌いな(なおかつ効きめの有りそうな)チョイスだったような気もする。あれは年長の姉たちではなく、優駿と菊花がくれたものだったのだ。
そして。
部屋の奥から、どこかで聞いたことのあるようなガラガラ声が響いた。
「だーれーかー。のど飴、買ってきて〜〜〜」
そして、そちらの方向から皐月があらわれる。部屋の奥を親指で指し示して
「優駿、今日からしばらく、あんたがごはん作りな」
と一言いった。ということは、ごはん担当係、桜花が潰れたのである。
それを聞いた菊花がため息混じりにつぶやいた。
「あら、やっぱり風邪がうつったのね。どちらかが倒れると思ったわ。秋華ちゃんにあげた飴がまだ残っていたと思うから、それを差し入れするわ」
「お願いね。多分、秋華ほどさっさと治らないと思うから。厄介なことに熱はないのよ。こうなったら長引くのよねー、大人になってからの風邪はー」
秋華に視線を向けて来、優駿がつぶやく。
「わかった? きょうだいの一部を隔離しておかないと、こうやって風邪がうつって倒れた人間を誰が面倒みるのさ。この風邪、さらに強力になってそのうち僕や菊花のところまで回ってくるぞ」
「あらあら♪」
菊花が他人事のように微笑んだ。
*
この冬、相馬家ののど飴購入はのべ一ヶ月続いたという。 ]]>オークスと、玄関先の必須アイテムhttp://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=252005-08-13T15:27:52+09:002006-05-16T13:49:45Z2005-08-13T06:27:52Z 相馬家の玄関先には、ガムテープが常備してある。
特に春と秋は必需品といっていい。
朝早く、まずは一家の大黒柱(?)、母が出ていく。
ローヒールの靴を履いたあと、ガムテープを手にして全身をぺったぺったぺった。
家族が次々目を覚まして朝食を済...十和田 茅024:ガムテープ
特に春と秋は必需品といっていい。
朝早く、まずは一家の大黒柱(?)、母が出ていく。
ローヒールの靴を履いたあと、ガムテープを手にして全身をぺったぺったぺった。
家族が次々目を覚まして朝食を済ませ、学校へ。
「行って来まーす」
菊花もガムテープを手に取り、くるりと輪にしてぺったぺったぺった。
同じ挨拶文を元気よくいって優駿が出ていき、秋華が出ていき、最後に桜花がでていくときまで、ガムテープはけなげに働いている。
「……行ってらっしゃい」
講義が遅いときの皐月は、桜花が出ていったあと玄関の鍵を閉めた。
そしてガムテープの残りを確認する。
「換毛期に比べたら、ましね」
ガムテープはまだまだたっぷり残っている。
皐月の足下には、縞模様の猫。
「にゃあん?」
「こら、オークス。お前のおかげで、我が家には猫の毛がついていない服なんて一枚もないんだからね」
みゃおん。
分かっているのかいないのか、猫は大きく股を開いて毛繕いをしはじめた。
玄関先のガムテープはエチケットブラシよりも強力なので、相馬家の面々には重宝がられている。]]>桜花さんの平穏な日曜日http://ladies-and-1.jugem.jp/?eid=242005-04-10T15:25:15+09:002006-05-16T13:49:19Z2005-04-10T06:25:15Z「今日はいいお天気ねぇ」
桜花はそういって窓を開けた。今日は風が強い。
すっかり気候は春である。通勤路の途中に桜の木がないから分からないが、天気予報の桜前線によるとすでに開花していることだろう。
「あんまり天気がいいからお花見でも行かない? 桜がき...十和田 茅023:パステルエナメル
桜花はそういって窓を開けた。今日は風が強い。
すっかり気候は春である。通勤路の途中に桜の木がないから分からないが、天気予報の桜前線によるとすでに開花していることだろう。
「あんまり天気がいいからお花見でも行かない? 桜がきっと綺麗よ?」
と振り向く桜花に、弟妹たちは気のない返事をよこしてきた。
彼らはリビングのテーブルを囲んでめいめい好きなことをしている。
「花見だってさ」
と、ソファに寝そべって漫画雑誌を片手にくつろぐ弟がいう。
「まだ寒いじゃない。遠慮するわ」
と、イーゼルに立てかけたキャンバスに向かう次女が答えた。
「あら、そういえば今日は桜花賞ね」
と、三女が新聞をみながら発言したと思えば
「桜花ちゃんの名前の由来じゃん。そういや桜花ちゃん、そろそろ誕生日よね? それとももう過ぎてたっけ?」
と、惰性でテレビをみていただけの四女が楽しそうに合いの手を入れた。
桜花はとたんに渋面を作った。
二十歳を過ぎた娘にとって、あんまり誕生日は嬉しい日ではない。
それどころか年を追う事に嬉しくない日に早変わりである。
「いやなことを思い出させてくれるわね……」
すると、恐れ知らずの弟が口を開いた。
「なんで? めでたいじゃん、誕生日」
次女と三女がちょっと表情を変えるが止めに入ることはしなかった。ついでにいうと、一番年下の四女は、まだ年若いだけあって弟の意見に同調する。彼らにはまだ年齢を積み重ねる意味がわかっていないのだ。
「……お花見はやめにします」
桜花は表情を固まらせたまま、告げた。
ふうん、と家族達は気のない返事。
「代わりに、今日は全員で大掃除!」
告知した瞬間、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「馬鹿兄貴が余計なこというから!」
「好きで地雷踏んだ訳じゃない!」
「皐月姉さん、私、図書館に行ってくるわね」
「ん、行っといで。私はちょっと画材抱えて友達んところへ……」
まさに好き勝手言い放題である。
次女は「画材を抱えて」といっていたが、描きかけのキャンバスはリビングへ放置されたままだ。
「まったく、人の気も知らないで」
テレビの電源を落とし、床に落ちたコンテを拾った。
薄いベージュ色のアクリルガッシュで下塗りされたキャンバスには、赤茶のコンテで人物らしきものが描かれている。いずれ油絵の具で仕上げるのだろう。丸と線だけで表現された人物は、めいめい好き勝手なポーズをとってリビングでくつろいでいた。
「ひとり、ふたり、みたり、よったり……あら。皐月以外はみんないるのね」
それが自分たちをデッサンしたものだと、分からない桜花ではない。
父も母も書き込んでいないのに四人もいるのは大家族ならではの光景だなと妙なところで感心する。
「アクリルガッシュなんて久しく使ってないわ」
油絵調の絵を描くときに一度使ったくらいだ。
はっきりした色が好きな次女・皐月と違って、桜花はパステルトーンやグレイッシュトーンが好きだった。
下塗りの色は何だろうと顔を近づける。
パステルサンドを基調に、パステルピーチとパステルエナメルを混ぜたような色だ。パステルピンクなどはよく聞く色名だが、パステルエナメルあたりになってくると単に絵の具を分類するための特殊な色名としか思えない。まず普通には聞かない色名だ。
優しい色である。なんだかこちらの気分まで優しくなるような気がする。
薄いベージュ色を見ながら、やっぱり家族に八つ当たりをして、何かを強制的にやらせるのはよくないわよねと桜花は思いなおした。
こうして気まぐれな桜花の日曜日は今日も平穏に過ぎる。
*
その夜、きょうだい全員が帰宅した。
リビングのイーゼルを前に、皐月が首をひねる。
「やっぱり下塗りがこの色だと明るすぎるかなぁ。中間色くらいがいいのよね」
アクリルガッシュで、優しいベージュ色の画面を今度は、灰みかかったモスグリーンで塗りつぶした。
「あーーーーー!?」
「な、なに!?」
近くで大声を出されて、皐月の刷毛が止まる。大部分を塗るにはちまちました筆より大きめの刷毛のほうがいいからだ。
大声を出したのはもちろん桜花。
「気に入ってたのに、そのパステルエナメルっぽい色!」
「そりゃ残念ね。だいたい、あとで普通に色を重ねていくんだから一緒じゃない」
絵として仕上げてしまうと、たしかに下塗りの色は完全に隠れてしまう。
さらに皐月がつぶやく。今度は静物にしよう、と。どうやらモチーフも完全に変えてしまうつもりらしい。
それが妙に桜花の神経を逆撫でした。
「やっぱり、来週の日曜日は全員で大掃除!!」
「ちょっ、冗談でしょ! 来週は大学の悪友たちと皐月賞見に行くんだから!」
こうして気まぐれな桜花の日曜日は今日も平穏に過ぎる。 ]]>