日曜日。たっぷりと惰眠をむさぼった優駿は、下へとおりた。階段をおりると短い廊下を挟んですぐに台所が見える。
台所では妹・菊花がダイニングテーブルで本を読んでいた。
「おはよう、兄さん。早いのね」
時計は午前十時をさしている。妹なりの皮肉めいたジョークだ。
テーブルの上には味噌汁が用意されている。優駿はその鍋をコンロにかけた。今日の具はジャガイモと薄揚げだ。
「菊、朝飯は?」
「もう食べました。あ、冷やご飯は冷蔵庫の中よ」
自分で温めて自分で食べろと、そういうことである。妹が支度してくれる兄などという幻想を抱いていては相馬家で生きてはいけない。むしろ姉のために食事の支度をし、後かたづけまで済ませるのが相馬家の男として正しい。
「桜花姉ちゃんは?」
朝の台所の主(ぬし)といえば桜花だ。今日はその姿が見あたらない。
「仕事」
間髪入れず返ってきた。そういえばそうかと納得する。桜花はいつも弟妹に弁当を持たせて出勤する。母は家族が起きる前に出勤だ。
「母さんは?」
「琵琶湖」
目が点になった。
思わず、うわずった声で聞き返す。
「琵琶湖って……滋賀県の?」
「ええ。お友達に誘われてバス釣りに行くんですって」
母にそういう趣味があったとはいままで知らなかった。たしか琵琶湖はブラックバスが在来魚の卵や稚魚を食べてしまうという被害が広がっているため、リリースが禁止されているはずだ。釣った魚は、やっぱり遠路はるばる持って帰ってくるのだろうか。
冷蔵庫の中から冷たくなったご飯を出してきて一食分だけを丼に移し、ラップをかけて電子レンジにかける。
「……母さんって、釣り、趣味だったんだ?」
「いいえ。まだ趣味にもなってない初心者のはずよ。でも、はまりそうだって云っていたのを以前、聞いたことがあるわ。釣った魚に餌をやらないあたりがいいんですって」
そっけない口振りだったが、そこに何か含むものがあった。言外に含ませたものの意味が分からなくて目だけで菊花に問いかける。
妹は読みかけの文庫本を閉じて、にっこりと笑った。
「兄さんも気を付けてね。ほら、私たちのお父さんが、釣った魚に餌をやらない人だったじゃない」
菊花の笑顔が、氷の微笑みに見えた。
にぶい優駿もようやく理解する。
競馬好きで家族もほったらかしだったろくでもない父親のことを、どうやら母はまだ根に持っていたらしい。
母・弥生さんは見合いで父と結婚した。
プロポーズの台詞は「一目見たときから決めていました」。……G2レースに弥生賞というものがある。このことを知ったとき、母は激怒した。
電子レンジは機械的な音を立てて、ご飯が温まったことを知らせてくる。
「兄さん、おみおつけ、沸騰しないうちにおろしたほうがよくなくて?」
せっかくの味噌の香りが飛んでしまうわよ、と、いつもの調子でのんきにいわれてしまった。
声は穏やかだったが、優駿はせっつかれるようにして火を止めに走る。味噌汁は食欲を刺激するいい匂いを放っていた。
のろのろと椀によそっていると、背後でにゃおんと飼い猫の声がする。振り向くと菊花が本を置いて猫を抱き上げていた。
「あら、オークス。あなたもお早いお目覚めね。お腹すいたの?」
三歳牝馬の最高峰を決めるレースの名を持ったこの虎猫は、名前から推察できるようにしっかり相馬家のお嬢様の一員である。
「今夜、母さんがごちそうを持って帰ってくるかもしれないから楽しみにしていましょうね。ブラックバスだろうがブルーギルだろうが、兄さんがなんとかしてくれるから。ね、兄さん。そうそう、オークスの朝ご飯も用意してあげて?」
にっこりと。
彼女の腕に抱かれた猫も、満足そうに一声、にゃんと鳴いた。
「……了解しました、お嬢様方……」
*
その後、優駿が朝食にありつけたのはキャットフードと水を用意して猫砂を取り替えたあとだったりする。