音楽には魔力があると秋華は思う。
頭より先に体が反応した。この音を知っている、と。
*
「ただいま」
秋華は鍵っ子である。帰宅時間に誰かがいることはまずない。急いで階段を駆け上がり、自分の部屋に閉じこもった。買ったばかりの新盤をデッキにかける。
制服にしわがよることも忘れて、そこにぺたりと座り込んだ。
硝子のように繊細で、植物のようにしなやかなヴァイオリンの音が流れ出す。
学校帰りに立ち寄ったCDショップ。店内のBGMに流れていたヴァイオリンの音を聞くなりなぜか涙が出てきた。
頬を濡らす水に、一番わけがわからなかったのは秋華自身だ。けれどこの音を知っている、と思った。気が付くと、目的のCDではなくBGMだったそのCDを衝動買いしていた。
懐かしい人が音の向こうにいた。
*
その人は音楽の教育実習生として小学校にやってきた。
優しくておとなしい雰囲気の彼女は、表面上すぐに生徒達にしたわれた。はっきりいうと生徒達のからかいの標的だった。子供は残酷だ。強者と弱者をはっきりと嗅ぎ分ける。
優しくておとなしくて、そして子供にまで見下される人だった。
秋華は、それを外側から見ていた。
傍観はいじめと同罪だ。それくらいわかっている。わかっているが、同級生相手にいじめをやめるよう声をあげる気にもなれなかった。小学校は人数も少ないし、近所の顔見知りも多くいる。敵を作るにはあまりふさわしくない閉鎖空間だ。子供なりの保身だった。
秋華は兄姉たちのことを思う。お人好しの兄・優駿だったらどうしただろう。もしくは、周囲の意などどこ吹く風の姉・菊花なら。更に上の姉たちは同時期に同じ学校にいたことがないので想像も付かない。
きょうだいの中で自分が一番醜いと劣等感を抱いていた。
その人は大学でヴァイオリンを専攻しているといった。
ときどき弾いてみせてくれた。
本人の優しげな気質とは裏腹に力強い音。そのくせ硝子のように繊細で、植物のようにしなやかな音だった。もしかすると、その繊細さもしなやかさも、力強さも、全部彼女の内面を映し出したものだったのかもしれない。
子供すぎたから、それに気づけなかった。いや違う、気づきたくなかったのかもしれない。あくまでも彼女は、実習期間が終わるまで生徒達が見下し続ける対象でなければいけなかったのだから。
ある日のこと。その日は音楽室の掃除当番だった。
「ちょっと借りるだけよ」
同級生のひとり――もう名前も思い出したくない女子児童が、彼女のヴァイオリンに触れた。
さすがにやりすぎだと、このときばかりは秋華は声をあげた。
「やめなよ。先生、来るよ」
「だからちょっとだけだってば。それともあんた、あの女に味方するのォ」
味方をするつもりはない、と秋華はいってしまった。そういわなければ、次に標的になるのは自分だからだ。
それともうひとつ、ヴァイオリンという楽器を身近で見る機会などなかなかなかったので一度ちゃんと見てみたかったのもある。憧れの楽器のひとつなのだ。
黒いケースをあけたそこには、つやつやと輝くヴァイオリンがあった。
「綺麗ねぇ」
「うん、綺麗」
「ね、誰か弾いてみせてよ!」
その場に四、五人くらいいただろうか。先頭を切って楽器にふれたのは、あの女子児童だった。見よう見まねでかまえて、弓で弦をこする。
「変な音ォ」
きゃはははは、と歓声が上がる。
本当は、みんなそれに触れてみたかっただけなのだ。からかおうとか、嫌がらせしようとかは全然考えていなくて、ただ頭の中で彼女のように優雅に曲を弾ける自分をイメージしたい。それだけだったと思う。
女子たちがそれを回して、めいめい変な音を出してみる。次は秋華の番、というところで最初の女子児童がそれを取り上げようとした。
「なにすんのよ!」
秋華は抵抗したが
「あんたは触りたくないんでしょ!」
と、いわれる。軽いもみ合いになったとき、秋華の右手からヴァイオリンの弓が飛んだ。
弓は音楽室の穴だらけの壁にぶつかって高く跳ねる。そのとき、弓にはられた白い弦はゆるんで、一本の太い束にみえたそれはバラバラの細い糸と化して床におちた。
全員、血の気が引いた。ついに、からかいで済まないことをやってしまったのだと全員が理解する。音楽室には沈黙が流れた。
「……知ィーらない」
残酷な一言が、原因となった女子児童の口から発される。
あのときの裏切られたような気持ちは一生、忘れない。
「私、知らない。あんたがやったんだからね!」
ヴァイオリン本体はそのとき女子児童の手にあったが、彼女はそれをグランドピアノの上に置くと一目散に逃げた。少なくとも秋華にはそう見えた。彼女が音楽室から走って出ていくと、周りにいた同級生たちも皆、秋華にすまなそうな目を向けて彼女のあとを追った。
さらに悪いことに、入れ違いになって教育実習生のその人が入ってきたのだ。
音楽室には秋華ひとり。
傍らにはこわれた弓。
頭の中が真っ白になった。
「……相馬さん?」
彼女のとまどった声は悲しみに満ちていた。もうだめだ、と思った。
「ご、ごめんなさい!」
ごめんなさい。 ごめんなさい。ごめんなさい。
いいたいことはうまく言葉にならない。
言葉をこぼす代わりに涙がこぼれた。
ヴァイオリンの弓をこわしてしまったこと。同級生たちがおもちゃにし始めたとき、それを止められなかったこと。皆がいじめているのを、知っていて見ないふりをしたこと。ついに自分もいじめる側にまわってしまったこと。そういう自分の劣等感や一番汚い部分をすべて吐き出したかったけれど、やっぱり言葉はでてこなくて、ただ壊れたレコーダーのように「ごめんなさい」を繰り返すしかできなかった。
罪の意識は全部、涙となってあふれ出した。
その人は、突如泣き出した秋華をどうしていいのか分からなかったのだろう。泣きやむまでその場に立っていた。
音楽室の窓からはいつのまにか茜色の光が射し込んでいた。
涙がこぼれる勢いはようやく落ち着いてきて、秋華は手の甲で顔を拭い、目の前の彼女を見る。彼女は、目が合うと安心したように微笑んでくれた。
「……怒らないの?」
彼女はやっぱり優しい笑みを浮かべたままだった。「だから子供になめられるのよ」と秋華はいいたくなったが、彼女の優しさに救われた気もしていた。
彼女は靴音をさせて、こわれた弓を拾い上げる。
「知ってる? ヴァイオリンの弓ってね、馬のしっぽの毛で出来ているの。たくさんの毛が集まって出来ているのよ」
弓の根本にある螺子のような部分をまくと、ゆるんでバラバラになっていた弦はとたんにピンと張って、元通りの太い骨のような形に戻った。
「うん、大丈夫みたい。本体のほうを貸してもらえる?」
秋華がヴァイオリンを渡すと、ハンカチ越しにあごに挟んで二、三の音を出した。音を出し、本体上部の螺子をまた巻いて、また弾く。
それから秋華も知っているクラシックの一小節を軽快に奏でた。
「ちょっと音が狂ってるようだけれど、これくらいなら修理に出せば大丈夫」
大丈夫といわれ、安堵感が体中に広がった。
「ありがとう、先生!」
どうして「ありがとう」といってしまったのかよく分からない。けれど、大丈夫だといわれて真っ先に浮かんだのは感謝だった。彼女はやっと笑った生徒に安心したのか、さらに数曲奏でてくれた。
「私、やっぱり先生には向いていないみたい」
彼女にそう告白されたのは、西日が完全に沈む一歩手前くらいに傾いたころ。
「そんなことない! 私たちが悪いんだから。先生は悪くない!」
ありがとう、と彼女は笑った。そのあとに「でも」と付け加える。
「人に教えることも嫌いではないけれど、それよりも自分が弾いた曲を聴いてもらえることがもっと好き。クラシックみたいによく知られた曲を自分なりの解釈で奏でることも素敵だと思うけれど、自分の作った曲を聴いてもらいたいとも思うの」
普段おとなしいその人は、穏やかな口調の中に熱っぽいなにかをこめてそう語った。
「本当は音楽家になりたい?」
秋華の言葉に、彼女は頬をそめて頷く。
「日曜コンサートの第二ヴァイオリンでもいいわ。舞台に立って、拍手をもらいたい。頭では分かっているのよ、それじゃ生活していくのは難しいって。でも……」
「じゃあ先生、音楽家になってよ」
ちょうどその当時、秋華の家には美大を受ける受験生がいた。美術で食べていけるのかと反対する母に、二番目の姉は毅然と「好きなことを貫きたい」といっていたのを秋華は聞いている。彼女も姉と同じだと思った。
「先生、音楽が好きなんでしょ。ずっと関わっていきたいんでしょ。だから、音楽やりながらお金もらえる先生になりたかったのよね」
「相馬さん……」
「でも音楽の先生に向いていないなら、あとは音楽家になるしかないじゃない!」
それがどれほど難しいことなのか、秋華はまだ子供すぎてよく分かっていなかった。
だが無知な子供だったからこそ、諦めるための言い訳をあっさりと吹き飛ばしたともいえる。
その人は目尻に涙をにじませながら大きく頷いた。
「先生、いつか音楽家になるからね。約束よ」
「うん。そのときになったらCD買うね。指切りげんまん」
それから、あなたが最初の観客よと、自分が作曲したという曲を奏でてくれた。
たった一人だけのコンサート。太陽はすっかり隠れていて音楽室は薄闇に包まれていた。そのせいで、いっそう曲に包まれているような気がした。
*
「夢が叶ったんだね、先生」
CDのジャケットには彼女が演奏している写真が出ている。白黒の写真、背景の薔薇の花だけ赤い。
彼女は教育実習が終了したあと、結局教師の道には進まず外国に留学したと人づてに聞いていた。それからまったく噂も聞かず、とうの秋華はそんなことすっかり忘れていたのだ。この音を聞いても名前も思い出せず、どこで聞いたのかさえ咄嗟に思い出すことは難しかったほどに。
ヴァイオリンの音はやはり力強く、硝子のように繊細で、植物のようにしなやかだった。頭で考えるより深いところで心を揺さぶる。
また、涙がこぼれた。