ここは大学の彫刻室。
目の前には大きな大理石。それも彫りかけの。
「こんなもんかな?」
と、皐月はシャッターを押した。
ポラロイドカメラの便利なところは、すぐに写真が出てくることだと思う。
すぐに「確認したい」だけならデジカメが便利だ。ちょうど末妹・秋華が今、デジカメを欲しがっている。
だがデジカメでは微妙に分からない色合いというのもあるものだ。
「液晶だとなんか色が鮮やかすぎるような気がするのよねー」
出てきた黒い写真が早く乾くように、うちわでも仰ぐようにして振ってみた。
ぼんやりと浮かび上がってきた写真を、美大生の皐月はさっそくレポート用紙にゼムクリップで挟んだ。
製作工程のレポートに使うのだ。
原石だけの状態、あたりの線を描きこんだ状態、彫りかけの状態1,2,3とポラロイドの写真は続く。
同じ場所で作業している友人が声をかけてきた。
「皐月ちゃーん、そっち、どれだけ進んだ?」
「んー、まだ半分」
「いいなあ、もう半分?」
進行状況について軽いやりとりをする。みんな今ひとつ切羽詰まった感がないのはまだ提出まで時間があるからだろう。締め切り前になると全員目が血走ってくる。その極限状態で生まれた魂のほとばしりが作品に影響されるのだから、いいことなのか悪いことなのか。
皐月は目の前の作品を眺めて、目を細めた。今はただの大理石でしかないこれが、世界にひとつしかない彫刻として完成するその日が待ち遠しい。
今日も遅くまで頑張ろう。
そこまで思ったとき、皐月の脳裏によぎる顔があった。
「……いけね。今日、遅くなることを姉さんに伝えなきゃ」
そして夕食はいらないということを報告しなければ、後が怖い。
皐月は携帯電話を持っていない。必要ないからだ。
大学には公衆電話が設置されているし、皐月の行動範囲は画材店と大学くらいなものだから家人もどこにいるか、いつ頃帰ってくるか知っている。バイトもしていない。あいにくと履修した講義内容がバイトを差し挟めるような状態ではないのだ。
少ない小遣い、携帯電話代に取られるくらいならその分、画材に使いたいと切に願う。貧乏学生の懐はいつもブリザードが吹き荒れているのだ。
いつものことなので、姉の携帯電話のナンバーは覚えている。
「あ、もしもし、姉さん? 実は今日、遅くなるから……」
姉・桜花の背後ではガタガタと機械音が鳴っていた。
「はい? さっちゃん? ごめん、聞こえない。ちょっと待って」
機械音は一定のペースでずっと鳴り続けている。皐月は姉の職業を連想して、ミシンの音と判断した。桜花はパートタイムのソーイングスタッフだ。子どもの頃から洋裁が趣味だったが高校卒業後その趣味を生かして近くのオーダーメイドブティックに勤めることになった。
やっとミシンの音が遠くなって、桜花の声がしっかりと聞こえるようになる。
「もしもし? ごめん、今、残業中なの。何?」
用事は何かと聞いてくる。
「いや、こっちこそごめん。遅くなるって連絡したかったんだけど、どうも直接家に電話したほうがよさそうね」
「行き違いになってごめんね。……それもこれも客が納期近くなってから激太りしちゃって、サイズ調整しなきゃならなくなって……。母さんは今日も遅くなるって。多分、晩ご飯はゆうくんが作ることになると思うわ」
弟が作るならチャーハンかカレーだろう。
姉二人の教育の賜か、それとも妹二人が毒舌で鍛えてくれたせいか、可愛い可愛い弟は存外器用でまめまめしく育ってくれた。
「それと、私のポラロイドカメラ、早く返してね。私だって自分の作った服、写真撮ってファイリングしてあるんだから」
そうなのだ。今、借りているものは姉の私物だ。
「え、えーと、レポート終わるまで待ってください、お姉さま」
普段は弟妹に偉そうな態度をとっている皐月も、桜花だけには一歩譲る。幼児体験にもとづく姉の威厳はちょっとやそっとではぬぐえないのだ。
「代わりにデジカメ買ってくれるっていうならそれでもいいけど?」
「勘弁してください」
電話の向こうに平身低頭。台詞の端にちらっと秋華の姿がかすめた。末の妹が桜花におねだりしたに違いない。あいつ、帰ったらシメるか、と皐月は心の中でつぶやいた。
その夜、秋華がどういう目にあったかはご想像におまかせする。