高層ビル最上階レストランは、窓から港の夜景が一望できることが売りだった。
自動ピアノがメロディをゆったりと奏でる。気取らない格好でフランス料理を楽しむことをコンセプトにした店で、客は料理に舌鼓を打ちつつワインやおしゃべりを楽しんでいた。そんな店内の奥まったところに男女が一組。
男はくたびれたスーツを着た、なんだかさえない風貌。女より随分年上にみえる。女は背に流れる黒髪が印象に残る美人だった。
「母がね、僕に見合いを勧めてくるんだ」
男の一言に、女の手が止まった。カチャンと聞き取れないほど小さな音を立ててナイフを皿の上に置く。
女は顔を上げて男の顔を見ることはせず、うつむきかげんのままだった。視界には男の皿しか見えない。
「そう……」
口をついて出たのはそんなそっけない一言だけ。
「僕もいい年だしね。そのときは曖昧に返事を濁したんだけれど……」
男の台詞はだんだん語尾が小さくなっていく。彼はグラスを手に取ると、やや勢いを付けて白ワインを飲んだ。
「そのぅ、母にね、君を紹介してもいいかな? 君も来年は卒業だし……君のご両親にもお会いしたいし……」
プロポーズ、なのだろう。
女は息を呑んだ。手はあいかわらず止まったままだ。男は女の返事を待っている。それが空気で伝わってきた。女は一息つくと、左手のフォークを右手に持ち替えナイフと並べて4時20分の形に置いた。皿の上のスズキのポアレ季節の温野菜添えは二口ほど食べられているだけだ。オリーブオイルとアメリカンソースで描かれた模様もほとんど崩れていなかった。
女は視線をあげないまま、
「ごめんなさい」
と、つぶやいた。
「皐月!」
男は、てっきり承諾の返事がくるものと信じ込んでいたようで、驚きと落胆が入り交じった声をあげる。皐月はテーブルの下でしっかりと両拳を握りしめ、平静を装って首を振る。
「あなたが嫌いとかじゃないの。今はまだ結婚できないわ。うちの事情、知ってるでしょう?」
下に未成年の弟妹が三人いる。高3の弟は受験生だし、それが終わると現在高2と中2の妹たちが受験のシーズンだ。これからどんどん金のかかる時期である。姉は大学を諦めて働いているのに、自分は金のかかる私立の美大に行かせてもらった。これ以上母と姉に負担はかけたくない。
「卒業したら働きたいの。これまで母や姉に支えてもらったし、これからは支えていく側にまわりたい。せめて末っ子が成人するまで……」
「結婚しても共働きでいいんだよ」
「駄目よ。姉のことだもの。『嫁いだのなら、実家の面倒まで見る必要がない』っていわれちゃう」
テーブルの上に沈黙が流れた。
場の空気を読めないウェイターがやってきて、ほとんど口をつけられていないスズキのポアレを下げていく。コース料理はまだ続いていて次は何事もなく牛フィレ肉が運ばれてくるのだろう。
男は口の中で何かごにょごにょといったが皐月の耳には聞こえなかった。
やっとはっきり聞こえたのが
「一番下の妹さん、いくつ?」
だった。
「14」
「……あと6年だね」
続く台詞はもう分かっていた。
「ごめん。僕は、あと6年も待てない」
あまりに予想通りだったので苦笑さえ浮かぶ。皐月はやっと金縛りがとけたかのように手を動かし、グラスに残っていた白ワインで唇を湿らせた。乾いた心を潤す恵みの雨のようだ。ラベルにはモノトーンのカエルの絵。一緒に雨を喜んでくれているような気がした。
「私、このワイン買って帰るわ。今日の記念に」
皐月は席を立った。引き留める隙も与えない。
「さようなら、荒野さん」
最後まで男の顔を見ないままだった。涙も、でなかった。
*
「ただいまっ」
皐月が帰宅したのは遅い時間だった。やたらハイテンションなので家族全員、彼女が飲んで帰ってきたことに気づく。
最初に出迎えたのは優駿である。
「おかえり、姉ちゃん。ご機嫌じゃん?」
「ふふん、海の見えるレストランでお食事してきちゃった♪ これ、おみやげ♪」
そういって弟に押しつけたのは白ワインが入った紙袋である。
ラベルにはカエルが飛び跳ねている絵が描かれている。このワインの名前を「カエルの跳躍」というのだ。カエルの伸びきった後ろ足の描かれ方がなんとも優美である。
「くれるの?」
「冗談。私が飲むのよ、こーの未成年が」
「それのどこが土産だよ!」
可愛い可愛い弟の口答えはラリアットで沈黙させた。
「いいよな、姉ちゃんは! 毎日毎日、悩みもなく自由気ままにしててさ!」
まったく悩みがないわけではないのだけれど。
けれど皐月は、そんなことはおくびにも出さず、軽快に笑い飛ばした。
「ほーほほほ。悔しかったらあんたも大学生になってみな、受験生。お姉様に逆らおうなんざ百年早いわ!」
*
乾いた荒れ野を進むのは、蛙には辛すぎるから。
せめて水をください。一人では寂しすぎるから。
暖かな笑顔に囲まれている場所が一番、心が潤うのです。