最近は日が落ちるのも早くなった。
秋華は玄関先で寒さに震えていた。日中が暖かく冬にはまだ早いため、防寒対策は万全ではない。
夕日が真横から射し込んでくる。落日までもう間がない。
やがて、近づいてくる足音が耳に入ってきた。秋華は期待を込めて、胸の前で両手を組む。現れたのは兄だった。
「秋華? お前、何してんの?」
家にも入らずに、と続いた兄の言葉は聞こえなかった。それよりも先に秋華が口を開く。これ以上なく瞳を輝かせながら。
「お帰りなさいませ、お兄様ッ!」
兄がドン引きしたのを秋華は見た。
「お前、何やらかした……?」
「ひどっ。それが可愛い妹に対する言い草!?」
「普段、人のことを『馬鹿兄貴』とかさんざんいってるお前がゴマをするなんて、どうせまた何かの尻拭いだろう!」
腹の立つ台詞をいってくれるものである。秋華は心の中で「その暴言、桜花ちゃんや皐月ちゃんに向かっていってみろ」と毒づいた。兄より年長の姉二人の、兄に対する影響力は大きい。相馬家のヒエラルキーの中で兄の立場は低いのである。もしかすると猫より低いかもしれない。
しかしここはぐっと我慢する。西の空はすっかり熟し切った柿色に染まり、太陽の最後の残り火ともいえる熱を残してくれていた。あれが完全に落ちれば闇と寒さまっしぐらである。
秋華はひとつ大きく深呼吸をして、自分がここに突っ立っている理由を簡潔に説明した。
「鍵がないの」
秋華は鍵っ子である。
ところが、たまたま今日に限って家の鍵がついたキーホルダーを部屋に忘れて出ていってしまった。秋華が小学生くらいまでは「念のために」と外に鍵が隠してあったのだが、不用心だからという防犯上の理由で、秋華が中学にあがってから置かなくなったので当てにはできない。
つまり久しぶりに閉め出しをくったわけである。
「桜花ちゃんに電話したら今日は遅くなるんだって。皐月ちゃんとは連絡とれないし」
だから誰かが帰ってきたら開けてもらおうと思っていたのだ。
このままどんどん寒くなるから、日暮れまでに兄が帰ってきてくれたのはありがたい。
が。
「あのな秋華」
兄は手で秋華を制した。眉間には縦皺が一本、浮いている。
「……悪い。合い鍵持っていく習慣がないもんだから、実は持ってない」
兄の悲痛な声でしぼりだされた告白に、秋華は思わず目を丸くする。
「こ、の……役立たずの馬鹿兄貴!!」
「やっぱり馬鹿っていうんじゃないか、お前は!」
兄は秋華の拳が飛ぶ前に鞄で頭をガードする。女所帯の唯一の男は、すっかり専守防衛がしみついているらしかった。
*
日が完全に落ちた。
真っ暗けである。
おまけに、日没前より鋭さを増した寒さが衣服の上から肌を突き刺すようだ。
「なんかさぁ」
「んー?」
「同じ場所でじっとしてると、寒さ、しみるよねぇ」
「コンビニでも行くか。暖かいもんでも買って」
「おごりね。当然」
「……兄ちゃん泣きたいよ、秋華……」
とりあえず二人は一時コンビニに避難した。
そうして二人が戻ってくると家の前に人影があった。プリーツスカートと三つ編みの影から、はっきり見えなくても誰だかわかる。
「帰ってたのか、菊花」
「菊花ちゃん!」
相馬家の三女は暗闇の中、ゆっくりと振り向いた。
「あら、兄さん。それに秋華ちゃんも。珍しく家に灯りがついていないからちょっと違和感を感じていたのよ」
おっとりとした声でそういった。対し、優駿と菊花はせき立てるように声をそろえる。
「鍵は!?」
菊花はきょとんとする。そうして、黙って首を横にふった。秋華は脱力する。三人も雁首そろえていながら結局誰も合い鍵を持っておらず、閉めだされたままということか。
「サイテー……」
「入れないの?」
「そうよ!」
「ね。漫画みたいだけど、ヘアピンでなんとかならないかしら」
姉はおっとりと微笑みながらとんでもないことをいった。
「それじゃホントに漫画みたいじゃん」
「試してみていいかしら?」
そうして姉は髪からヘアピンを一本抜き、鍵穴に差し込んだ。
カチカチと音がする。
ごくりと、息を潜めてその様子をうかがう。
なにしろ『あの』菊花なのだから、もしかして、もしかしなくても、なんとかなるかもしれない。
だが聞こえてきたのは解除の音ではなく、菊花の苦笑だけだった。
「……駄目ねぇ。ピンは差し込めても、うまく引っかからないわ」
鍵穴に差し込まれたヘアピンは音をほとんど立てずに引き抜かれた。秋華はまたしても脱力する。期待した分だけ、ちょっとつらい。
まあまあ、と兄が慰めてくれたが、秋華には白々しく聞こえた。秋華にできるのは精一杯八つ当たりをすることだけである。
「だいたいねぇッ! こーんな手元が暗いところで、ヘアピン程度で鍵開けできたら世の中、鍵なんていらないのよッ、泥棒入り放題じゃん!」
「お、落ち着け、秋華。それでも世の中にはピッキング専用工具で似たよーなことをやって鍵開けして泥棒に入る人だって……」
「だったらその人、連れてきなさいよ! その道具持ってきなさいよ! 馬鹿兄貴なんかさっきから全然役に立たないんだからァ!」
「無茶いうな!」
自分でも無茶なことをいっていると思う。それでもとにかく出口のない憂さを晴らしたくてひたすら兄に怒鳴り続けた。姉が、なにやら鞄の底を探っていたのは目の端にかすめていたが、秋華はそれどころではなかったのである。ドアの前では一人、菊花がカチャカチャと鍵穴をいじる音。
秋華と兄がひたすらどつき漫才を繰り広げているその最中、菊花の手元で涼やかな開錠音がして、ドアが開いた。
思わず秋華と優駿はそちらに顔を向ける。
「開いたわよ」
それはまさに天使が発した一言であった。秋華は兄を放り出し、姉を賞賛した。
「すごーい、菊花ちゃん、どうやったの?」
これでもう寒さに震えることもなく、真っ暗けの不安感もなく、そうしてもう少ししたら温かいごはんが食べられる。安心しきった秋華に、菊花は微笑みを浮かべた。
そこで、秋華は見てしまった。
口元に笑みを貼り付けたまま、姉の眼鏡の奥で、瞳が半眼になる。
「それは秘密です♪」
秋華と優駿は恐怖で凍り付いた。
「どうしたの、二人とも。家に入るわよ?」
菊花は家の中に入り玄関の灯りをつける。家主の帰宅を待っていたらしい猫がちょこんと玄関マットの上に座っていて、尻尾をたたきつけて怒りをあらわにしていた。このお嬢様、どうやらごはんの時間にごはんが用意されていないことに大変ご立腹であるらしい。
「あらあら、遅くなってごめんなさいね。おなかすいたわよね、オークス。ちょっと待っていてね」
ぱたんとドアが閉まった。外に二人を残したまま。
*
秋華と優駿は体を小さくして震えていた。
「こ、怖かった……! 絶対! ずえったい! 相馬家のヒエラルキーの頂点って、菊花ちゃんだと思う!」
「頂点かどうかはさておき上にいるのは間違いないと思う……我が妹ながら恐ろしい……いったい何を隠してたんだろうか」
無力な妹と兄は、自分たちの真ん中にいる影の実力者に逆らうのはやめよう、と改めて肝に銘じるのであった。