桜花は読書中だった。
その本とは星新一「ボッコちゃん」。星新一といえば生涯のうち1000編以上のショートショートを残したことで有名である。
SF作家ということで有名だが、桜花はこのなかで特に悪魔の出てくる話が好きだった。星新一作品の悪魔はどこにでもいるサラリーマンのようで、性格の悪いやつも温厚な口調のやつも皆なんとなく憎めない。
ちょうどその中のひとつ、「鏡」を読み終わったところだった。
簡単にいえば、深夜の合わせ鏡の中から悪魔が出てくるという話である。
桜花はストーリーそのものより、合わせ鏡の悪魔のほうに興味がわいた。
「そりゃねー、合わせ鏡なんて馬鹿らしいと思うけれどー」
なぜかいそいそと鏡を探してみる。
「今日は十三日の金曜日じゃないしー」
とかいいつつ時間をチェック。もうすぐ午前0時。
「子供っぽいって分かってるのよねー」
ならばなぜ、鏡を手にして洗面台に行く。
桜花は大きめの鏡を抱いて、洗面所の鏡に背中を向けた。ちょっとばかりわくわくしながら手持ちの手鏡をのぞく。
当たり前だがそこには桜花の顔があるだけだった。
「つ、つまらん……っ。顔の一部しか見えないしッ。もっと、わーーーっと二重三重にもなった自分が映ると思っていたのにぃッ」
距離の問題である。鏡と鏡の間が狭いと、当然目に入る反射光もずれが少ない。
別に桜花は本気で鏡の中の悪魔を信じているわけではないが、自宅でやるとこうも合わせ鏡の面白さがないとは思わなかった。
もうやめよう。手鏡をおろし、洗面所の鏡に向かい合った桜花は、鏡の中に黒く横切る何かを見た。
「……」
目の錯覚だと思いたかったが。
「き」
なんだかすごく高速で動いた何かを、確かに見た。
「きゃーーーッ!!」
深夜に絶叫が響き渡った。
*
寝ぼけ眼の菊花がいった。
「馬鹿馬鹿しい。光の速さが何キロだと思ってんの。秒速30万キロメートルよ、地球を七周半よ?」
受験勉強中だった(らしい)優駿もいった。
「あのさぁ、姉ちゃん。合わせ鏡に映った像ってのはいわばフラクタルなの。どこ取っても同じなのが無限に広がってんの。わかる? まぁ実際は鏡の反射率が100%じゃないから有限なんだけどさ。合わせ鏡から悪魔が出てくるなんてありえない、ありえない」
理系組二人に理論でかわされ、それでも桜花は反論する。
「それでも! なんか見たんだから! 鏡のなかに横切るささっとした……尻尾も見えたもの!」
「尻尾ぉ?」
桜花の台詞に、やっぱり起きていた皐月が頭をかいた。
文系組の皐月も不信感いっぱい。一番最後に、末妹・秋華が洗面所にやってきた。
「ねぇ、オークス知らない?」
長女を心配する台詞ひとつない。
「この薄情者!」
「桜花ちゃんの悲鳴なんて今に始まったことじゃないじゃん!」
長女と末妹の言い争いもいつものことである。
皐月と優駿と菊花はめいめい自分の部屋にひきあげた。
ぎゃいぎゃいと言い争いを続けていたとき、秋華が下を向いた。
「オークス、あんたこんなところにいたの?」
いつのまにか猫は二人の足下にいた。
オレンジ色の毛並みした雑種の彼女は、口に何かをくわえていた。
色んなものを見せに来るのが猫である。今度の獲物は湿ったなにか。
「どれどれ?」
秋華がしゃがみこむ。桜花は、今までの経験からろくなものではないと判断して後ずさった。
相馬家の愛猫オークスは自慢顔。彼女のくわえた小さな固まりには、ぷらん、と細長い尻尾がたれていた。
秋華と桜花が同時に引きつる。
深夜に二度目の悲鳴が響き渡った。今度は二人分。
「ギャーーー、ネズミーーーッ!!」
合わせ鏡の悪魔は無事退治された。しかし報酬がこの悲鳴では、猫はなんともやるせなかったに違いない。