相馬家の二階、短い廊下を足音荒く進むのは秋華だった。
兄の部屋の前で、乱暴にノックを3回。
「ちょっと、馬鹿兄貴! 私の部屋に勝手に入って本棚荒らしたでしょ!」
返事がある前にドアを開けた。
兄・優駿は、誰がお前の本棚なんか用があるか、と脱力した声をあげながら机に向かっている。その隣には珍しく大学4年の姉がいた。
「あれ、皐月ちゃん?」
「よっ」
彼女は右手に英単語集を持っている。兄のものだ。
姉は優駿を指さした。
「こいつ、明日は英単語の小テストがあるってのにテレビ見ようとするから、私が姉さんから監督をおおせつかっちゃってね」
「僕がバラエティ見たいっていったら、桜花姉ちゃんがその時間は『懐かしのアニメ特番』を見るってさ……」
きょうだい間の上下関係はテレビのチャンネルひとつ取ってもよく分かる。優駿が一番下だ。
相馬家の居間にはビデオデッキが一台、DVDプレイヤーが一台。ビデオもDVDもほかの姉妹が予約録画していて塞がっている。わりをくった優駿は追い出され、小テストにむけて監視付きでもくもくと勉学に励んでいるというわけだ。
「ちょうどよかったじゃん。馬鹿兄貴、英語の成績ぼろぼろなんだからァ」
秋華は兄と違って英語は得意だった。
それもあっての発言だったが、皐月にたしなめられた。
「優駿は数学の成績はいいよ、あんたと違ってね。それと、こんなんでもあんたのお兄ちゃんなんだから馬鹿呼ばわりはやめな」
もしかすると本人は「やんわり」たしなめたつもりかもしれないが皐月は元からきつい性格である。言い方もものすごくきつく感じた。
図星をつかれると人は怒るものだ。面白くなくて秋華は捨てぜりふを吐いて部屋を飛び出した。
「なによう! 馬鹿兄貴を馬鹿兄貴っていって何が悪いの、馬鹿ーーーッ!」
*
「……やれやれ」
椅子に深く腰掛け姉・皐月はドアを見つめる。
優駿はちょっと驚いていた。普段、こきつかわれるしかない姉に、なんだかかばってもらったような気がする。
その姉が突如、優駿のほうを振り向く。眉間には似合わない縦皺が作られていた。
「あんたの監督不行届だよ。きょうだいってのは、上のが下のをしつけるようになってるの。あんたが妹をちゃんと育てないからでしょーが」
「ははっ、返す言葉もございません」
気分はお殿様と小姓。ひらに、ひらに、頭を下げる。
姉ちゃん自身はどうなんだよ、と心の中で突っ込んだら、まるで聞こえていたかのように皐月が話し始めた。
「あんたと菊花は、私と姉さんで面倒みたのよ。母さんは働き始めたころだし、あんたは目を離すとどこまでも走っていくから私が後を追って、残されて泣く菊花を姉さんがあやしてね」
皐月と優駿は4才離れていて、桜花と菊花は6才差。よく考えてみれば、優駿たちが小さな頃といえば姉たちはもう小学生だった。家で言葉も通じないような子供の子守をするよりも同級生と遊びたかったに違いない。
「……苦労かけたんだ?」
「んー? 苦労というか、文句言いつつもそれが普通だったわねぇ。おかげで今も我が家はきょうだい仲良し。秋華もああ言いながらあんたのこと嫌いじゃないしね」
それはいえると優駿は頷いた。友人の家族で、きょうだいで会話などしないという家族があるが優駿にとっては信じられない。それでは逆に、相馬家の四姉妹+1は仲がいいということだろうか。たとえ姉や妹にこきつかわれていようと会話がなくなることはないのだから。
皐月は、その話はもう打ち切りだとばかりに声を張り上げた。
「ほれ、そんなことより続き、続き。『形容詞:静かな、穏やかな』!」
「えーと……『tranquil』」
単語をつづったあと、ふと思って優駿はその後ろに付け足した。
tranquilizer(精神安定剤)
「我が家ってさ、お互いがお互いの精神安定剤なのかな」
「かもね」
皐月は微笑を浮かべた後、また淡々と英単語の続きを唱えた。
*
翌日。
「さ、小テストの結果はどうだった。見せてごらん」
にこにこ、にこにこ。皐月はとても機嫌が良かった。昨日、自分が勉強を見たので結果がとても気になっている。
対し、優駿の顔色はとても悪かった。ひきつったような笑みで藁半紙に刷った小テストを渡す。その手は震えていた。
「……」
姉の笑顔は変わりない。ただし、背後に背負った空気がどんどん淀んでいくような気がする。
「及第点は何点なのかな」
「に……20点満点中、16点です」
「ほほぉぉう」
ぴらりと、優駿によく見えるようにテスト用紙の表を向ける。
「これは?」
「じゅ、じゅうごてん……」
空欄が4つ。スペルミスがひとつ。tranquil と書くべきところを tranquilize と書いて、大きくペケをくらっていた。
「折檻じゃあ!!」
「ぎゃーッ! お、お姉さま、ご勘弁!」
姉にプロレス技をかけられる兄を、秋華は半眼でみやる。
「やっぱ馬鹿じゃん」
涼しげな顔で横を通り過ぎる。数学の補習を受けている自分のことは棚に上げた。