絽の着物を着て、紗の帯を締めた。
すっかり夏の装いである。菊花は三面鏡を見ながら後ろに回した帯の形を確認した。半幅帯なので、帯結びは文庫さえ覚えておけばなんとかなる。
隣には、げんなりした顔の姉・桜花の顔があった。
「どうしたの、桜花姉さん?」
と、菊花が聞くと、桜花は首を振って答えた。
「このくそ暑い中、なんできっちり着物を着込もうと思うのか、不思議に思って」
「ええ、暑いわね。でも、着ている本人はともかく見た目は涼しげでしょう?」
袂をつまんで、広げてみせる。
今日は生成りを基調にした着物と、鉄紺色の縞の帯だ。
着物は、はっきりいって夏は暑くて冬は寒い。冬は襟が開いているのでそこから風が吹き込んでくるし、夏は夏でシースルーを上に着ている状態になるから、透けないようきっちりと中に着込むことになる。特に菊花は自分で着付けをするときタオルで補正している。上手なひとが着付けると補正は必要ないというのだが、菊花が補正なしで着るとしだいに崩れてきてしまうのだ。そうすると、当然だが汗をかく。合理性は洋服に及ぶべくもない。
それでもなぜ着るのかといえば、単純にきれいだから。好きだからだ。
「じゃ、お茶の先生のところにご挨拶に行ってくるわね」
「きくちゃん、ひとつ聞いていい?」
菊花の名は「きっか」とふりがなを打つのが正しい。だから、桜花や兄が「きくちゃん」「菊」と呼ぶのは呼びやすいあだ名のようなものだった。
菊花は首を傾げて続きを促した。そして桜花は、深く噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「……きくちゃん。あんた、本当に高校生?」
「だから周囲から浮いているのよ」
コロコロと笑った。
妹からは「年寄りじみている」といわれる菊花だ。もう少し年齢があがれば、着物が好きでお茶やお花を趣味にするような友達もできるかもしれない。それでも自分の好きなことを他人にとやかくいわれる筋合いはないし、また、とやかくいわれても受け流せるのが菊花の性格だ。
「それじゃ出かけてきます。……あら」
先ほどまで晴天に入道雲だったのが、なんだか空模様が怪しくなってきた。遠くからゴロゴロと雷の音がする。
桜花も玄関先まで出てきて空を見上げた。
「あらぁ、夕立が近いのかしら」
「大変」
菊花は身を翻して、自分の部屋へと走った。雨が降るなら、雨コートと雨下駄を出してこなければ。それに換えの足袋も。今日は着物にあわせて白い日傘で出かけたいと思っていたのについてない。
正直、雨の日や風の強い日に着物で出かけるのはかなり不自由である。
それでもやっぱりこういう装いが菊花は好きなのだ。
*
夜。脱衣所に明かりがついていることに桜花は気づいた。
きょうだいは全員居間にいる。また誰かつけっぱなしにしたのかと思ったが、覗いてみると留守だと思っていた菊花がいた。
「おかえり。帰ってたの?」
汗を流したと思われる菊花はさっぱりした顔で普段着のワンピースを着ていた。かたわらでは全自動洗濯機がごうんごうんと音を立てて回っている。
「……き、きくちゃん……?」
ついつい目がいってしまう、稼働中の洗濯機。
そこに何が入っているのか、あまり考えたくなかったけれど、それしか思いつかない。
「きくちゃん、まさかとは思うけれど、あんた着物をそれで丸洗いしたの!?」
「そうよ?」
けろりとした顔で返された。
「夏場、特に雨の日の外出は洗濯機で丸洗いできるものに限ると思うの。泥跳ねは避けられないし、放っておくと汗ジミができるし。かといって高校生(こども)のお小遣いで毎回クリーニングに出せるものでもないでしょう。人間、分相応が一番。安物のポリエステルしか持ってないの、私」
同じポリエステルでもピンからキリまであって、自分が持っているものならネットに入れて洗濯機の手洗いモードで洗えばそれで十分だと菊花は微笑む。
古い固定概念しか持たない桜花は、その台詞ひとつひとつに雷に打たれたようなショックを受けた。
「桜花姉さん。ショックを受けてるときにもうひとつ爆弾を落とすけれど」
「もう何が来ても怖くないわ……」
「着物の下、クレープ綿のステテコをはくと涼しくていいのよ」
にっこり。
うら若い乙女がステテコ。いやいや、女はそういうものなのだ。泳ぐ姿の優雅な白鳥が、その水面下でどんな姿をしているかなど、世の殿方は永遠に知らなくてよいのである。